窓の外はうっすらと白み、鳥の声が聞こえる。夜明けの気配を感じて、やってしまった、と手元を見やる。
作りかけの手芸やお気に入りの本、一応書き上げたものの、どこか気に入らないエッセイ。日によってバリエーションは多々あれど、総じて私の好きなものである。そして傍に、コーヒーか緑茶。食べ物は手が汚れるからなし。
真夜中の趣味タイムを楽しんだ後には、親としての朝を迎える
月に一度くらい、こうやって真夜中の趣味タイムをしてしまう。精神のリフレッシュであるこの時間は楽しいが、肉体的には疲労する。30歳が見えてきてもう若くないから、寝ないと途端に足元が覚束なくなる。
でも、あと3時間もすれば、我が家のお子様が起きてくる。2歳児は容赦なく私の掛け布団を剥ぎ取るだろう。そして手を引っ張り、リビングへ連れていかれる。よく寝た子どもはお腹がぺこちゃんなのだ。
睡眠不足の働かない脳としょぼしょぼする目をこすり、私は親として朝を迎える。タイマーをかけておいた炊き立てご飯をよそい、汁物を温める頃にはどうにか、頭が起きてくる。
ごはんを用意する、汚れたらこまめに着替えさせる、おむつの交換も言わずもがな。幼児のお世話をこなして、公園へ繰り出して、帰宅したら積み木や絵本で遊んで。子どもとしっかり向き合うことを疎かにしない。どれだけ眠くても、疲れていても。それが趣味タイムを楽しんだ以上、礼儀だと思っている。
子どもが産まれてから、24時間母親をしてきた。そのこと自体に良いも悪いもなく、なるべくしてそうなった、それだけだ。しかし、今までの自分をどこかにやってしまい、精神的な息苦しさを感じるようになってしまった。
ひとりの人間であった自分と母親としての自分は、私にとって同一ではなかった。もしくは、まだ分離した状態でこれから混じるのかもしれない。
ともかく、私は自分を救うために、疲れると夜を謳歌する。
本を夢中で読んだ後、健やかに眠る子どもに「可愛い」
つい数日前には、図書館から借りてきた本を読んだ。
湊かなえさんの「山女日記」と小川糸さんの「あつあつを召し上がれ」。どちらも好きな作家さんで、それぞれ読んだことのない本。文字をなぞり、夢中で読んだ。紡がれる人物。情景。織りなす物語。どうして、こんな素晴らしいものを生み出せるのだろう。
上等なワインを飲んだときのような満足感。読み終えてお茶を淹れ直して一服していると、子どもの声が聞こえた。
寝室とリビングの扉は、いつも細く開けてある。もし子どもが起きたら、すぐに駆けつけられるように。
暑くて起きちゃったかな?
そっと寝室を覗く。もぞもぞと動いていたが、すぐにまた、深く眠りに落ちた。声も寝言だったようだ。彼はたまに、むにゃむにゃ言ったり笑ったりする。夢の中でも。
寝息でさえ可愛い。健やかに眠る様子に、そう思った。
外はまだ真っ暗だけど、今日はもう、急須を片付けたら寝てしまおう。精神の余裕を獲得した私は、穏やかなまま眠りにつくことができた。
次の眠れない夜は、何をお供にするか。この選択が一番大事なので、今から心して選びたい。