多くの人にとっても同じでしょうが、私にとって、夜イコール寝る時間であり、寝ても良い時間です。
物心ついた頃から寝付きはとても良い方です。睡眠欲が旺盛なのでしょうか、眠れない夜、みたいなものを経験したことがありません。明日の遠足が楽しみでも、なかなか来ない返信に不安を募らせていても、気付けば眠りに落ちています。

それはすごく健康的で良いことなのだ、とは思います。精神にも身体にも休息を与えられている、ということですから。
一方で、気付いたことがありました。寝ることは、精神と身体のリセットであるということ。期待も心配も疲れも、寝る前と同じ濃度ではなくなっていること。それを強く感じた夜がありました。

若さゆえにできた合宿。5日間、食事と睡眠は規則正しくなくて…

大学生の頃、夏休みに屋久島へ行きました。
代々サークルに受け継がれてきた旅程は、おそらく幾度もの改定を加えられた、時間と効率となによりお値段に折り合いを付けたものだったのでしょう。ときに眠い身体を吊革で揺らしながら鈍行を乗り継ぎ、ときに高速乗合バスで仮眠を取り、ときに休息時間のはずの船内で船酔いに苦しみました。

若さゆえに許される強行軍というやつです。5日間の旅行中、食事も睡眠も規則正しいとは口が裂けても言えない状態のまま、森を歩き山へ登り海に足を浸しました。
それでも、旅行は素晴らしいものでした。屋久島特有のスコールが降り注ぐテントの中でまどろんだことや、早朝の登山口で眠い目を擦りながらも期待に胸を膨らませたこと。夏の屋久島のとにかく鮮やかな緑の中を屋久杉まで歩いたことも、頂上付近の岩の上で風を感じながら島を見下ろしたことも。興奮に疲れを忘れて、見たもの聞いたもの触れたもの全てにおもしろいくらい感動しました。

しかしそういった高揚感も落ち着いていった、落ち着いてしまったのが最終日の夜でした。
サークルメンバーとも別れ、最寄り駅から家までの道を歩いていたときのことです。着替えやらお土産やらがぱんぱんに入った登山リュックと重い登山靴という装備で、疲労で砂のように重い体を引きずるように歩いていました。

質の悪い睡眠を繰り返したからこそ、思い出は鮮明なのかもしれない

夜も遅く、あと1時間足らずで日付も変わろうかという頃だったと思います。あと家に着きさえすれば、お風呂に入ってベッドで眠れる、と思いました。車内での仮眠でも昼間の空き時間の休息でもない、枕と布団の揃った「正しい」夜の睡眠です。
しかし今夜眠ったとき、この旅が本当に終わってしまうのだと、唐突に強く感じたのです。

その夜までは細切れで質の悪い眠りの繰り返しでした。そのため疲労は蓄積され、一方でだからこそ思い出は鮮明なままでした。
けれど質も量も十分な眠りを取ってしまえば、精神も身体もリセットされてしまう。長い登山道を歩き切った達成感も、海辺のガジュマルに登って当たった潮風の感覚も、屋久杉を見上げたときの心の震えも。山道で他のグループが雑談していたどこぞのご当地ゆるキャラの噂話から、足を踏み外して手を付いた時の苔や土の感触まで。

一度満足に寝てしまえば、もう同じ鮮度では記憶していられないだろう。それを感じて、たまらなく寝るのが惜しくなりました。心身の疲れは確かに睡眠という休息を欲していたけれど、それによって失われるであろうものに気付いてしまったから。

強烈な経験は、疲労を与える。それを眠りで和らげていると思うように

あの夜は、眠りたくない夜でした。実際のところは心地よい寝具を前に、溜まっていた疲労と持ち前の寝付きの良さでぐっすり眠ったのですが。
起きても、もちろん記憶は残っています。こうして何年も後になってから、文章に書き起こせるくらいの記憶が。けれどもあの感動も感覚も本当はもっと鮮やかっだったのだろうな、と思わずにはいられないのです。

強烈な経験は心身に強い影響、もしくは疲労を与え、それを眠ることで和らげているのではないでしょうか。だからあの夜から、私は寝るとき、ほんの少しだけもったいないような気持ちになるのです。

その日あった楽しかった出来事も、読んだおもしろい本の感想も、見聞きした美しいものへの感動も、夜が少しずつ薄めていると感じてしまうから。