妹が重いぜんそくで入院。5歳の私は祖母の元で暮らすように

私が初めて眠れない夜を経験したのは5歳の頃、妹が生死をさまよった時のことだった。
私には3つ下に看護師をしている妹がいる。29歳と26歳になった現在であるが、妹は2歳の時に一度、生命の危機を迎えた。
重いぜんそく。それは当時の私の目から見ても明らかだった。

息苦しそうに呼吸をする妹を前に、私は親元を離れ、東京にいる祖母の元で何日間も暮らすようになった。母親が妹の入院につきっきりになるからだ。
祖母は寂しさを感じさせないようにと、よくお買い物をしに東京の街へ連れ出してくれた。駄菓子屋によく売っている、イラストとして描かれることの多い大きなキャンディを買ってもらうが、中々食べきれなかった。まだ幼稚園生の私には大きかったようだ。
当時アメリカとロシアの大統領であったクリントンとプーチンが、握手をして新聞の表面を飾っていたのを覚えている。
「これはクリントン大統領だね。これは?」
「えっと、プーチン大統領って言うんだ」
「変な名前だね」
「変な名前だね」
そんな会話をしたのを、今でも鮮明に覚えている。
母親に会えない寂しさもあったが、妹が元気に退院することを信じて、祖母と二人で生活していた。

妹が危ないと聞いたとき、私にも状況を察することができた

しかし、事態は私たちの想像しない方向へと動いていった。いつも手に点滴をしている妹が、今日は足の甲に点滴をしている。母に聞くと、手に針が刺さらなかったのだという。
妹は日に日にやせ細り、父は、
「かわいそうだなー」
と、病院の廊下を歩きながらつぶやいた。大部屋から個室に移され、終いには小さなベッドごとビニールのようなもので覆われていた。
まだ5歳だった私にも、日に日に呼吸が苦しくなっていくことが伺い知れた。死にそうなのかも知れない……。そんな不安が頭をよぎった。ビニールに覆われた妹を見た夜は、眠ることができなかった。

その夜だが数日後の夜だか分からないが、妹には本物の危機がやってきて、
「危ないかも知れない」
と泊まり込んでいた母親に伝えられたと同時に、周囲には小児科病棟の職員全員が集まっていたという。
そんな状況を聞かなくても、まだ5歳の私にも状況を察することができて、眠れなかったというのに……。暫くはその状況から生活に息苦しさを感じていたことを覚えている。

それから数週間が経ち、妹は元気を取り戻して退院することができた。まだ万全な体調ではないけれど、家に帰れるほど元気になったことに肩の荷が下りた。
母のすすめで治療してくれたお医者さんに手紙を書いたが、恐らくこの出来事を超えるほどの感謝の意を綴った手紙は、30年近く生きてきた中でもなかったと思う。

無力さを感じた夜、不安を抱えたまま布団の中で縮こまった

成長してからの私たちは、決して仲がいい姉妹ではなかった。寧ろ二人ともわがままで、食べ物やその他の物を取り合っては取っ組み合いの喧嘩をした。ある時はスマートフォンの色を取り合って店員さんの前で堂々と喧嘩をし、勝敗に敗れた妹は一足先に一人で家に帰ってしまった。

精神的にも大人になり、昔よりは互いを認め合うようにはなったけど、趣味が合わずに一緒に出かけることもない。
けれども、いなくなればいいと思ったことは一度もない。そもそも妹のいない人生なんて考えられない。
私はあの夜、考えられないことが起こりうるのではないかという不安を抱えたまま、一睡もできずに布団の中に縮こまっていた。まだ死ぬと確定したわけじゃないから、そうだと決めつけたくはないから、涙は出なかった。
たった一人の妹の命が助かってほしい。でも、自分には何もできない。
初めて無力さを感じたあの夜、私は初めて眠れない夜を過ごした。