走馬灯のように記憶がぐるぐると頭の中で再生される

それは走馬灯のように。
今までの人生の節目や、大事な思い出、とりとめもない瞬間が頭を巡ることがある。
1日の中で必ず組み込まれている夜という、世間一般では眠る為の時間。活動が推奨されていない時間。
眠る為、というのは人間が決めたことであって、それが世界の決まり事ではないけれど。

夜、電気を消して、眼鏡をとり、布団の中に潜り込む。
少し経つと、レコードを回し始める時のような、静かなスイッチがふと入る。
眠い、寝たいといった自分の意志とは裏腹に、今までの記憶が再生される。

それは、中学生の時から社会人になってからのものに突然とんだり。大学時代から本当に記憶にぎりぎり残るくらいの幼い時と、順番は驚くほどにばらばらで。
勿論、ここ最近のことは鮮明に。
悲しかったことも嬉しかったことも、楽しかったことも、こわかったことも。

全てぐるぐるに混ざり合わさった記憶なのに、不協和音なんてなくて、レコードは淡々と穏やかに流れる。それは、わるいものでもなんでもなかった。

平凡な私だけど、多くの人と触れ合った記憶がたくさんある

小さい頃、眠れない時はニ段べッドで顔も見ずに妹としりとりを延々とした。
1番下の妹が産まれて、ママが家に病院から帰ってきたとき、2番目の妹が拗ねて隠れたこと。
大学時代の彼氏とたくさん旅行に行って、写真をよく撮っていた。そういえば、歳を経るにつれて、あまり写真を撮らなくなった。
おばあちゃんが倒れた時、私は何も喋れなかった。
おばあちゃんが寝たきりになった時、おじいちゃんは泣いていた。
社会人になって赴任した沖縄での生活。早朝出勤の時は星空を見ながら通勤した。
眠れない夜は同期の部屋に集まって、ずっと話していた。
愛犬であり、家族だったあの子が亡くなった日、母が夜に亡骸を抱いて呼びかけていたことをこっそり、実は、知っている。

上京する時、父が大量の文具類をくれたこと。
私が帰省する時、両親がごはん何がいい?と聞いてくるその顔。
今となっては年に数回。会えた時にいっとう嬉しそうな顔を見せてくれる祖父母達。
一緒に出掛けると腕を組んでくるのが可愛い、友達のあの子。
15分だけね、って約束しても話し足りなくて、電話で数時間過ぎたことが何度もあるあの子。
この間の地震で、真っ先に心配の連絡をくれた親友。
会えて嬉しいよ、って会うたびに伝えてくれるあの人。
夜通し呑んで食べて騒いで、ふざけて話して笑っていた素敵な同期達。
愛してるよ、って言ってくれたあの人。
愛してるよ、とは言ってくれなかったあの人。

さよならする時の君の言葉、抱きしめた時の身体の厚みの感覚。
頬の体温が、今でも忘れられない。
首にまわした手の感触さえ。
撫でてくれた手が優しかった、なんて。
触れた手のやり場はもうどこにもないこと。
でも、出逢えたことがとてもとても、嬉しかったこと。

私は特に何も持っていなく平凡だ。
けれど、こんなにもたくさんの想い出せる記憶があって、そして多くの人と触れ合い笑い合い、かかわりあって、マイナスもプラスの感情も得ながら生きてきたのだと。

夜は、私が愛して、愛されたことを確かめる時間

ちゃんと誰かに大切にされ、愛されてきた。
私も大切にして愛してきた。うまくできていたかは、わからないけど。
そしてこれからも、そういうふうに毎日が重ねられていくのだと。

眠れない夜の理由は、ただひとつ。
自分が自分であることを強く確かめる唯一の時間。
眠りたい意思とは裏腹に、眠ることよりも深く、私はたくさんの想い出に沈み込む。
そうして、私は私でしかないのだと実感する。
夜を超えて朝、また頑張って生きようだなんて、ほんの少しの力にそれはなるのだ。

ああ、私だめだ、今日は悲しい、頑張れなかった。
そんな夜に、愛する人たちとの記憶は、なんとも嬉しい眠れない理由なんです。