恋なんてしたことなかった。でも、大学3年生の時に彼に出会った
あの子がいたから、私は泣いている。
小さな頃から割と達観していた私は、反抗期を早々に済ませて、心を動かすことなく大学生になった。親元を離れても、今ではLINEのおかげで連絡に困ることもなく、寂しいなんて思わなかったのだ。大学でも友人は出来たし、サークルにも参加した。どこにでもいる平凡な大学生だった。
3年生の時、サークル内の活動で広報のデザインが必要になり、所属ゼミにいた男の子に声をかけた。彼はそれが得意だと聞いていたのだ。
用意した締切や素材なんて今思えばしっちゃかめっちゃかだったし、イメージを伝える説明力なんて皆無で、責任者となり焦っていた私にとって「なんとかしましょう」と言った彼はまさにヒーローだった。いつのまにか目で追うようになっていった。彼とやりとりをしながら作り上げていく仕事はあまりにも楽しくて、あまりにも満たされていた。時には深夜まで作業をしながらそれは完成した。
恋なんてしたことのなかった私だから、友人にせっつかれてようやく彼を映画に誘った。そこから段々と遊ぶようになり、3回目の時に「付き合ってください」と言われた。
彼と一緒にいると、私の中にどんどん色がついていく
電車の中で握手をしたり、外のベンチにくっついて座ったり、手を繋いで歩いたり。初めてのこともそうでないこともあったけれど、こんなに舞い上がっていたのは初めてだった。何をしても楽しかった。
ショッピングモールのベンチで「今、私ちゃんと恋してるな!って思うんです」と言ったら嬉しそうに笑っていたこと。山登りの道中で分かれ道をどちらに行くかジャンケンで決めたこと。カレーを食べていたらお腹が痛くなって、薬を探しに手を引かれながら歩いたこと。その年の春は全て夢だったかのように思う。
「私、寂しいとか悲しいとかあまりわからなくて」
「別に悪いことじゃないと思いますけど、そのうち知ることになるんじゃないですか」
「どんな色ですか。そういうのって」
「人それぞれだからねえ」
私の質問に対して曖昧にしか答えなかったけれど、彼は私が寂しいと言えば喜んだし「成長じゃん」なんて茶化した。恋がはっきりしていくにつれて、好きもはっきりしていった。それはチューリップみたいなピンク色をしていた。
それからは私の中にどんどん色がついていく。
楽しいの黄色、嬉しいのオレンジ、好きのピンク、イライラの赤、切ない紫、悲しい青、穏やかな緑。寂しいはセピア。遠ざかる記憶の色だ。
心と色が繋がるまでに時間がかかるから、私が気持ちを感じとるまでにも時間がかかる。ああ、あの時私は悲しかったんだなと振り返ることが増えた。夏になってようやく、心の底から好きなのだと思った。ようやく追いついたよと言えば彼は驚いていた。
彼の腕の中で言った。
「ずっと楽しいでいてよ」
そうじゃなきゃ、いなくなってしまうでしょう。彼の部屋で彼に触れている時は何故かセピアがずっと心を離れないのだ。
黒い部屋の中。ベッドで寝ていた彼は「死にたい」と言った
秋になって、冬になって、お互いに忙しくなった。私は私の活動で、彼は彼の活動で。久しぶりに彼の部屋を訪れてみれば、電気のつかない部屋は黒くて怖かった。
ベッドで寝ていた彼は言う。「死にたい」
黒は死にたいなんだな、なんて頭の片隅で思いながら逃げ出したくなった。揺れない洗濯物が私を追い返そうとしているようにすら見えた。暗かった。ごめんね、楽しいでいてほしかったのに。青いワンピースを着ていた私に彼は「可愛げがない」なんて言う。胸がスッと冷めていく。冷たい青紫、悲しい諦めだった。その日押し付けた手紙とプレゼントに返事はなかった。
部屋に戻ってから寝られなくなった。黒いのは怖い。彼は大丈夫なんだろうか、心配しているふりをしてみてもメッセージは送れなかった。私に出来ることなんてないのだと思ってしまった。布団に丸まっても寒い。私にまで黒が侵食してくるようだった。
どうしたらいいの?私は私の変化をまだ受け入れられない
真冬になった。繁忙期が去っても私と彼がプライベートで会うことはなかった。
私は連絡が来ることも減った彼に「好きじゃないなら振ってください」と言った。
彼は「利益を感じられなくなったから」と言って私を振った。
ごめんね、楽しいでいさせてあげられなくて。私ばかりが受け取っていた、色も心も。
あの春が全部セピアになっていく。帰りのバスの中で私は泣けなかった。実感が湧かなかったのだ。次の日の朝になって私は泣いた。確かに寂しいと感じている、そのことは少し嬉しかった。
彼との関わりで私の中に色が増えた。そのせいでそれからは大変だ。
夕日を見るたびに寂しくなった。野花をみれば嬉しくなった。死んだ虫を見て悲しくなった。小さな物事に全部心が動くのだ。自分に苛立って赤、お昼寝の時の緑、友人と話して黄色。気持ちの色相環が風車のように回る。くるくる忙しい心に疲れてしまう。彼を見かけた日の夜は未だに走馬灯のような夢を見る。あなたは元気にしてますか。私は、私は。
変わってしまった、どうしようもなく変わってしまった私をまだ受け入れられない。
どうしたらいいの、と叫ぶ宛さえなくしてしまって私は今日も泣いている。