死ぬことしか考えられずにひとり涙にくれる夜、いつも踏みとどまらせてくれたのは、名前も覚えていないあの子だった。

幼少期から続くDVと虐待で、私は「声」を出すことができなくなった

今から4年と少し前、高校3年生だった私は心身ともにボロボロになっていた。大地震でクラスで一人だけ自宅が半壊し、受験勉強にもまともに取り組めない焦りに加え、抑圧していた幼少期から続くDVと虐待の記憶の蓋が、ふとした拍子に開いてしまったのだ。

心を守るために忘れていた数多の記憶を抱えながら、加害者と暮らすことの精神的負担は、はかりしれなかった。幼い頃そうしていたように、父親が夜中に部屋から出てくるたびに「今日こそ殺されるのではないか」と警戒してしまうため、夜も満足に眠れない。

特に精神的暴力が酷かったためか、私はある日を境に声を出すことができなくなった。声帯に異常はなく、ささやき声なら多少は出せたのだが、胸がジクジクと痛んで仕方がない。それ以上に大きな、他人と円滑なコミュニケーションをとれる程の声量を出そうとすると胸がつかえ、声の代わりに涙がこぼれ落ちる。

声を出すことができず、友人たちの会話に混ざれないのは寂しかったが、皆突き放すことなく理解してくれた。そのおかげもあり、私は声が出ないことを悲観的に捉えていなかった。「このまま一生、声なんて出せなくなってしまえばいいのに」とも思った。

声が出せなくなっても、友人たちは変わらず接し、回復を願ってくれた

声が出せなくなった原因に、私は心当たりがあった。父の言葉の暴力。それが母と弟を、私を支配しなぶっていたこと。ナイフで皮をそぐように、みぞおちを拳で殴るように、目にスプーンを入れ脳をかき回すように紡がれる言葉。機嫌がいい時に、冗談として放たれる言葉でさえ、私をいかに傷つけたか。

私も同じように、無自覚に人を傷つけてしまっているかもしれない。いや、きっとそうだろう。言葉の暴力は、受けた本人にしかわからないものがある。私は言葉の負の力を嫌というほど実感していた。誰かを傷つけてしまうくらいなら、一生口をつぐんで生きた方がましだと思うほどに。

そんな思いとは裏腹に、声が出なくなった時と同様に、涙を伴わずに声が出せるようになる時も突然やってきた。友人たちが、私の声が出るようになることを願ってくれていたのも大きかったのだろう。言葉を発する恐怖から、声を出す抵抗感と胸の痛みは消えないものの、日常会話に加わることができるようになった。

週明けに登校し、声が出るようになったことを友人たちに伝えると、皆一様に喜んでくれた。迷惑をかけて申し訳なかったが、変わらず接してくれていたことが嬉しかった。

その日の掃除中、同じ掃除班の子に元のように話せるようになった旨を伝えると、その子は「よかった…!また豆子ちゃんの声が聞けて嬉しい、本当によかった」と、安堵と喜びをにじませた声色で言った。

すとん、とつかえが取れたように、その時から私は苦なく声を出せるようになった。痛みからくるものとは違う涙をにじませながら、私は「ありがとう」と彼女に言って、頭の中で何度も何度も彼女の言葉を反芻させながら帰った。

名前も思い出せない「あの子」が、何度も踏みとどまらせてくれた

4年経った今でも、折にふれて思い出す。机を後方に移動させたほこりっぽい教室。柄の長いほうきを持ち、さらさらと髪を揺らして笑顔を見せるあの子。名前も忘れてしまったけれど、あのひととき、あの声だけは今も鮮明に思い起こすことができる。

いつも一緒にいる友人でも、なんでも話せる親友でもなく、掃除の班が同じだっただけの、今では名前も思い出せないあの子の存在が、私を何度も踏みとどまらせてくれた。家庭に原因があるからと負い目を感じていた母でもなく、声が出せない間学校生活を支え気をつかってくれていた友人たちでもない、彼女からの言葉だからこそ、私はまっすぐに受け取れたのだろう。言葉で傷ついた私が、言葉で救われた瞬間だった。

もちろん家の状況は何も変わらないし、それからも降り積もるストレスで病み、私は入退院を繰り返すこととなる。それでも今自分が生きているのは、あの子がいたから。

現実とうつの渦との行き来で、薄れゆく高校時代の記憶の中、あの子の声はいつまでも鮮やかに響く。今となっては、彼女がどこにいるのかさえわからないが、どうか幸せでありますように。遠くにいてもあなたのことを想う人がいることを、いつか彼女に伝えられることを祈る。