わたしは、場所を決めるにも時間を決めるのにも、他人に合わせてしまう。
「わかった、じゃあそれで!」が、口癖になっている。
自分の意見はあっても、相手がいいなら優先させてしまう私
これは、平和主義でありたいという思いからなのか、単に相手に合わせてしまった方が楽だからなのかはわからないが、双方の意見がぶつかって時間を要するぐらいならば、相手の意見を聞いて縦に首を振った方が、断然いい。
そんなことに慣れた私は、自分の意見は持っているものの、あまり他者に伝える機会はない。相手がいいならそれでいい、という他人優先主義である。
しかし、私も人間なので、感情は相手の言動によって容易に揺れ動くのだ。それを相手に伝えるか否かは別として、着実に感情は揺れている。
あまり感情を表に出さずにポーカーフェイスを極めたいのだが、どうしようもなく感情が出てしまうときは考える間もなく、出てしまっているのだろう。気づいたときには、もう時すでに遅い。
自分がやっていることに、それなりのプライドを持ってしまうタイプで、そのプライドに他人が無神経に踏み込んできたときは、感情が爆発してしまう危険性がある。
志望大は医療系。初めて意志を伝え、私生活も進路もうまくいくはず
そんな忘れもしないであろう経験は、高校3年生のときだった。
校則が周りの高校と比べると最上級に厳しい高校に通っていた。
厳しい部活にも所属していたし、根からの真面目なので、いわゆる模範生徒並みに規則からは逸脱することなく高校生活を送っていた。
卒部したときにもらった色紙に副顧問から、「裏表なくコツコツ頑張ることができる」とあったぐらい、先生の前では服従していたし、頑張っている生徒でいようとしていた。
期待を裏切るようで申し訳ない出来事なのだが、高校3年の三者面談で、私は医療系の大学に行きたいと言った。
あまり、意見を言わない私が、初めて親にも意思を伝えた時期でもあった。
しかし、その同時期に私の家は放火されて、お金が必要なときだった。新しい家も欲しいが自分の進路も譲りたくはなかった。家族会議もそのことで持ちきりである。
幸い、私の両親は意見を尊重してくれるタイプである。だから、面談でも先生に意思を伝えた。すると、先生もわかったような素振りをする。一件落着である。私生活も進路もいい方向に進むと、その時は思った。
「バイトをしなさい」と言う先生に沸く怒り。限界だった
両親が面談室から出た瞬間、先生が口を開く。
「大学の学費を払うのは、とても大変なことだ。両親も大変なのだから、部活を辞めてアルバイトをしなさい」と、淡々と一方的に言ってくる。
そんな中で、私の怒りの感情は沸々と着実に沸いていた。気づけば、目から涙が溢れていた。泣きながらも「それは出来ない」と言うが、相手も譲らない。そんな私に次々発せられる言葉に我慢も限界だった。
「ふざけんなよ!あの部活をどれだけ一生懸命やってると思ってるんだ!お前に何がわかるんだ!」と散々怒鳴り散らした。どうにでもなれと思ったのか、気づけば私の口からは暴言しか出てこなくなっていた。
先生もびっくりしたことであろう。だが、暴言を放った今更、どう思われようと関係がなかった。
もし、このとき先生が部活での頑張りを認めてくれていたら……、最善の方法を一緒になって考える姿勢があったのなら……、私のプライドを傷つけることはなかっただろう。
実際に、部活の応援には色々な先生が応援に来ている中、一度も姿を現したことがない。そんな人に簡単に部活を辞めろと言われて、そうですねと、誰が辞めるのだろうか。こう思うのも、プライドが高いせいなのだろうか。
結局、2人きりではどうにもならずに、両親を泣きながら再び呼び出した。「どうにかこいつ(先生)にわからせろ!」と両親にも訴えた気がする。
結局は、部活を引退したらアルバイトをするということで落ち着いたが、高校のときは意地でもアルバイトをしなかった。大学に通いながら、アルバイトで学費を払った。
自分が好き、やりたいと思えるものは、誰が何と言おうと譲れないもの
普段は、他人の意見に寄り添ってしまう私が反抗出来るときもあったのだと感心してしまう。この出来事は顧問にも伝わり、なぜか勇気ある行動として讃えられた。1日経てばまた先生の前で真面目生徒を装っている自分にも嫌気が差しそうだ。
いまやっていることに対して、「向いてない」と平気な顔して言われることもあるだろう。悲しいが、そんな現実がある世界だ。
それは、呪文のようにスッと自分の中に入ってくるし、本当に向いてないんじゃないか、辞めたほうがいいんじゃないかと思えてくるのもよくあることだ。
だけど、みんなひとつやふたつ、絶対にこれだけは譲れないというものを持っていると思う。自分が好きだと思えるもの、やりたいと思えるものは、誰が何と言おうと譲れないものだ。いや、他人のひとことでそんなに簡単に譲ってはいけない。向いてないとか、できないは、やりたいと思った時の気持ちに勝ることはないし、他人がどう思おうとそれは他人の勝手である。
実際、そう考えることが出来たらいいのにという願いを込めて、綴る今日である。