「あの子は可愛いし、服もお洒落だ」と、落胆をも溶かす夜風は相変わらず冷たかった。
私は自己肯定感という不必要な感情に苛まれる時があった。当時の自分は、自らと向き合い、きちんと愛でる事ができない時期でもあり、輝きを持たない目は「私以外誰もいなくなれば幸せになれるのだろうか?」という言葉が脳内で頻繁に再生されるようになった。

しかし時の流れは便利なもので、このような負の感情を払拭してくれる且つ、新しい事象や人々の出会いを提供してくれた。

答えのない反省会を繰り返す夜を重ね、眠れなくなっていた

私は社会人になって、「我慢」というもどかしく、時には快感にも変化する気持ち悪い感情を憶えてしまった。学生時代は味の無いガムを吐き捨てたり、寝坊をしてしまったり、アルバイトを1日で辞めても全てが許されると思い生きていた。
しかし、歳を重ねると遅刻はおろか、空に叫ぶ鬱憤さえも許されず、社会からストレスという荷物をテイクアウトしている羽目になっている気がするのだ。すると次第に、「私の生き方はこういう所がダメなのかもしれない」と当てのないネガティブ思考が再び膨張し、独身女の心を容赦なく握り潰してくるのだ。

夜になると更にその感情は活発となり、不眠の道へと誘惑してくる。そして私はいつの間にか、答えが出ない反省会を繰り返す夜を重ねては眠れなくなっていた。

眠れない夜に惰性で見るSNSは、脳内をさらにかき乱した

入眠のタイミングを見失ってしまった私は、好きな本すら読む気力が無くなってしまい、惰性でSNSを見てしまうようになった。
SNSは別人格を纏える優越感に浸れる仮面舞踏会なのか、日常の鬱憤を晴らす為の心身をボコボコにするプロレス会場なのかよく分からない。年齢も性別も分からない。そんなSNS達は私の脳内を更に掻き乱しては、既存の感情や考え方を書き換えようとしてくる一種の洗脳のような感覚は不愉快で、どこか中毒性が高い。

そして私は、自己肯定感の低さを1ミリでも紛らわせようとSNSという毒に浸ってしまう日がある。しかし、光るだけの液晶は何も教えてはくれず、与えてくれるモノもない。

社会に出て感じた事は「君はこういう人だよね!」「ここが前よりか良くなったよね!」と私が私の事を十分に理解できていない中、歩く自己啓発本のように先に生きてきた方々が親切に教えてくれる事がある。
とてもありがたい事なのだろうと考えるも、なぜか私の心は満たされたという感覚は無いのだ。そのような感情が塵に積もっては粗大ゴミに化する。
ストレスが解消される「これ」といった方法論は無く、その時々によって爆食いをしたり、お酒を呑んだり、夜風を浴びてみたりと変化する。

少なからず私は、ストレスを感じず生きるという事は不可能だ。恐らく私が知っている限り、ストレスを感じている人しかいない。しかし、考え方によっては負荷を軽減する事、もしくは消滅させる事は可能である。
その方法論は各々違うし、誰も否定も肯定もできない「個人の絶対良域」及び「楽園」なのだ。

好きなアーティストのライブ。些細なストレスはどうでも良くなった

そんな私は、好きなアーティストのライブに出向くのが大好きで、爆発寸前のストレスはそこでほぼ昇華されている。
先日、あるガールズバンドのライブに出向いた際、本当に私はこの方々に助けられてるなと思った。コロナ禍でも最大限に楽しい空間を創造し、提供してくださる彼女達には本当に脱帽だった。

そんな彼女達もどこかで色んな事を想い、音やその他の趣味嗜好にぶつけているなんて考えていると、私は些細なストレスや負の事象がどうでも良くなっていた。嫌いな上司の嫌味も、冷たい音を奏でる人々の雑踏でさえも彼女達をはじめ音楽が続く限り、私はどんどん強くなっていけると思った。
これは失恋して髪を切ると気分が変わるというエビデンスの無い心理効果と同様なのかもしれない。
ライブの思い出を反芻していると、私は嬉しくて幸せが溢れて眠れなくなった。