2022年、どんな自分になりたいか。元日からずっと考えているけれど、答えが見つかる気配はない。

周りから見れば「理想で充実した」私の暮らし。実際は虚無感が強く

私は地方の国公立大学に通う、大学2年生。学費を払ってくれる家族がいて、賢く面白い友人に恵まれ、他人から見ればとても理想的で充実した日々を送っている。
しかし内心では、とてつもない空虚感と焦燥感に襲われている。2022年になりたい姿もなく、ただ漠然と「もう何も頑張りたくない」という感情に襲われている。

その原因はおそらく、私が極度の完璧主義であるということだ。何事も完璧でなければいけないと自分で自分を縛り付けて、勝手に苦しんでいるのだ。

私は小さい頃から、完璧を求める子どもだった。それにはおそらく、親の教育態度が関係している。今思うと、私の親は子どもに求める理想が、異常なほどに高かった。勉強も運動もできて、友人からも先生からも愛され、他人に羨ましがられる子。これが私の親が子どもに求める姿だった。

私はこのフィクションのような「理想的な子ども」を目指して、小学生の頃からずっと走り続けてきた。テスト、習い事、委員会、部活、受験……。私は全てにおいて完璧でなければいけないと考え、何事にも必死に取り組んだ。
そして成功すると「まだまだ頑張らなければ」という強迫観念に取りつかれ、失敗したときは「なぜこんなこともできないんだ」と自分を責めた。

身が入らなくなった受験勉強。親に相談すると、返ってきた言葉は…

この完璧主義的な考えはエスカレートし、高3の大学受験にも強く影響した。
この時私は、超難関国立大学を第一志望にしていた。第一志望を選んだ理由は、その大学が親が望む「理想的な」大学であったからだ。
もはや私に自分の希望などなく、親が良いと思うものを選ぶことは当たり前になっていた。しかし勉強を進める中で、私はその大学に絶対に受からないことを悟った。努力ではどうにもならないほど、勉強が難しかったのだ。

そして「どうせ失敗するならやらないほうがマシだ」と考え、受験勉強に全く身が入らなくなった。一度だけ親に相談した。もう頑張り続けるのは疲れた、休みたい、と。
しかし親は「とにかく今は、何も考えずに頑張れ。悩んでいる時間が無駄だ」と言った。

受験生にかける言葉として、確かにそれは正論だった。しかし自分では十分なほど頑張ってきた私に、その言葉はあまりにも重く、残酷だった。私はただ「もう十分頑張った、失敗しても大丈夫だよ」と言ってほしかったのだと思う。

もう頑張りたくないと思うのに、私はまた「完璧」を目指して走る

第一志望には当然不合格となり、今の大学に入学した。大学生になり完璧主義がマシになることを期待したが、そんなことはなかった。課題にサークル、アルバイトと様々なことに挑戦し、相変わらず全てにおいて完璧を求めた。

何かに失敗したときは、「なぜ自分はこんなにできないんだ」「生きている価値がない」と自分を責めた。やがて「無能」という言葉が頭にこびりついて、離れなくなった。そして、自分を否定することは私にとってもはや当たり前の行為になった。
「もっと頑張らなければ」「他の人はもっと有能だ」「これじゃだめだ」「なぜできない」……常に自分を否定し、急かすような言葉が頭に浮かぶ。

2022年は、就活をする年だ。自分がしたいことはわからないので、親が認める「良い企業」への就職を目指すだろう。我ながら、それはとてつもなく無責任で、情けないことだ。しかし、自分の選択を信じて、何かを決めることがどうしてもできない。

そしてやはり、2022年の目標も思いつかない。
ただもう、疲れた。頑張りたくない。
いつになったらこの漠然とした焦りと負の感情から抜け出せるのか。完璧でない自分を認められるのか。
親の意識に寄り添っている限り無理なのだろうと思いながら、私はまた「完璧」を目指して走るのだ。