私は就学前から、自分の容姿に自信がなかった。

テレビに出ている人と、自分はどうしてこんなに違うのか。少し古風な名前のせいか。幼稚園の可愛い友達は、どうしてあんなにわがままを言っても許されるのだろうか。うちの親がしつけに厳しいのは、自分がそんなに可愛くないからか…。

幼稚園のときからそんなに思い詰めているなんて、相当大人びた、そして相当悲しい幼少期だったと思う。

学生時代、外見は大人になってからも磨けるから「内面」を磨いた

容姿に対するコンプレックスは、小学生時代も続いた。特に学校で、クラス女の子に対する女の先生の態度が、容姿によって違うことを、私は子供ながらに敏感に感じ取っていた。クラスには「ブス」とか言って、女の子をからかって楽しむ男子ばかりだった。これはもう今の時代では許されないよね、と過去を振り返って思う。例え、それが年端のいかない男の子であっても、ましてや大の大人であるなら尚更。

高学年になって、可愛い女の子の友達に彼氏ができるようになると、私は性格至上主義になった。あの子はモテているけれど、性格悪いな。人をひがむのではなくて、自分は性格を磨くようにしよう。いつか大人になったら、自分のお金で外見を磨くことができるようになる。内面を磨くのは、今からでもできる。まずは、内面を磨くことから始めよう。そう思っていた。

中学・高校は、部活と勉強で精いっぱいだったので、容姿については特に気にならなかった。好きな人に振られたりしても、容姿のせいだとは特に思わなかった。まさに忙殺される毎日の中で、目まぐるしく青春を謳歌した。容姿に関しては、最新のファッションを、学則の範囲内で自分がどう取り入れられるか、考えて実行するだけで楽しかった。

サークルの男性に「どこか惜しい」と言われて心に刺さった棘…

うって変わって大学時代は、あまりの見た目至上主義に面食らった。私のいたサークルは真面目に活動をするサークルだったが、出会いサーと揶揄されても仕方ないほどにカップルが多かった。大所帯だったので、サークル内のカップル誕生の多さはカードゲームの神経衰弱さながらだった。

もちろんパートナーを見つけることは悪いことではないと思うし、若者が集まればそうなるのも当然だと思う。ただ私は、可愛い子ばかりがもてはやされるその集団の風潮が納得いかなかった。私は男性におもねるようなことはできなかったし、プライドも高かったし、まっとうな意見をずけずけと言ってしまうタイプだった。

そんな私は頼りにこそされたが、私を恋人に選ぶ人はいなかった。「花梨はどこか惜しい」と、サークルで仲良くしていた男性に言われた言葉が、私に刺さった。その棘は大学卒業まで抜けることはなかった。

社会人になってすぐに、会社の同期と付き合うようになった。巨漢で一重。必ずしもイケメンとはいいがたい見た目だが、彼がいると周りの雰囲気が和やかになる。そんな魅力を持つ彼に、すぐに惹かれていった。

付き合って2年以上経つが、彼は今でも私のことを「可愛い可愛い」という。どこがいいのか、自分ではよくわからないし、彼が好きな女性芸能人と私は似ても似つかない。でも、私が彼のことをイケメンではないけれど、かけがえのない人だと思っているように、彼も私のことも大切に思っていてくれる。うまく表現できないけれど、彼が私に言う「可愛い」は、ただの可愛いじゃなくて、大事にしたいとかそんな意味なのかなと思う。

容姿を評価してくる人がいても、私を大事にしてくれる人がいればいい

誰かに容姿のせいで不当な扱いを受けても、人間として私を大事にしてくれる・必要としてくれる恋人・家族・友達がいればそれでいいと思えるようになってきた。

いまだに容姿についてあれこれ言う人は周りにいるけれど、その人たちの戯言をただの雑音として捉えられるようになった。人間のほんの一部である容姿でしか、人間のことを判断できないかわいそうな人たちとして。

これからも、自分の容姿の捉え方は変わっていくだろう。しかし、忘れないでいたいのは、自分は容姿だけで出来ているわけではないということだ。容姿は自分のほんの一部だ。

そして他人の容姿もまた、その他人のほんの一部だ。そのことを抱きしめて生きていきたい。