今は飛行機で羽田空港に向かっている最中。
座席前の暗くなったモニターに反射して写る自分と目があった。シルクのような素材の白のブラウスに、ハリのあるベージュの革ジャンを羽織った私。これまでの私が好きこのんで選んでこなかった着こなしなのだが、我ながらなんだかカッコいい。

リスナーの何気ない一言に、今の自分を作り上げた過去を振り返る

月に一度、渋谷にあるコミュニティFMでラジオパーソナリティを務める私。以前、出演番組のおじさんリスナーから何気ない一言を言われた。

「もっと年相応の格好していいんちゃう?」

その時は「そうですね〜!これまで“オトナにならなくちゃ”ってどこか焦ってたからな〜」と、その場しのぎに返答した。
そもそも「オトナにならなくちゃ」と思っていた理由は何だったのか。これまであまり気に留めていなかったのだが、これを機に今の自分を作り上げた過去を振り返ることにした。

私が物心ついた時、母は更年期と育児ノイローゼ、その上にメニエール病を患い、日頃からめまいや耳鳴りの症状に悩まされていた。持病持ちでワンオペ育児だったんだから、本当に母には頭が上がらない。
幼稚園生ぐらいの年頃は、きっとまだ親が一緒にお風呂に入るのが「普通」なのかもしれない。しかし当時幼稚園生だった私は、母の体調が芳しくないと、「今日はリーがお母さんの代わりだからね」と言って、歳の変わらない不憫な妹をお風呂に入れてあげていた。
それを母が脱衣所越しに聞いていたことを知ったのは、それから20年近く経った頃だった。

焦りのような「“オトナ”にならなくちゃ」が体現されたファッション

そして私が20歳の時。母の子宮と卵巣に腫瘍が見つかり、全摘出手術のために1週間ほど入院することになった。その際、横浜の学生寮から帰省し、母の病院に着替えを届けに行ったり、病院から帰宅すれば洗濯・夕飯作りに勤しんだ。そして普段全く家事をしない実家暮らしの妹に、家事を手取り足取り教えてあげたものだ。
その時に教えてあげたガーリックシュリンプに妹はどハマりし、退院後の母に振る舞ったらしく、「さすがに退院後早々にアレはヘビーだったわ」と母が後日談を笑いながら話していた。

こういった幼い頃からの積み重ねが起因してか、24歳になった妹は未だに私のことを時折「お母さん」とうっかり呼んでしまう。
「“オトナ”にならなくちゃ」という焦りのような使命感が、私を背伸びさせたのだろう。
もちろん“オトナ”に見えるファッションのおかげで、どこに行っても恥ずかしい思いをしたことはない。
大学時代に行ったインターンシップも、美容部員時代の研修の時も、“オトナ”の「普通」に溶け込んでいたのだから。

そういった生い立ちや経験が生みだした、焦りのような使命感による「“オトナ”にならなくちゃ」が体現されたファッション。デフォルトとなっていたのは暗髪ヘアに黒のリブニットと黒のスキニー。スカートは履いてもミモレ丈。それは言うなれば「おばさんになってもできるファッション」だった。
私のラジオ番組のおじさんリスナーから言われた「もっと年相応の格好していいんちゃう?」という言葉が、私をがんじがらめにしていた、焦りのような使命感によるファッションを少しずつ手放させた。

背伸びせず、「普通」じゃなくたって「特別」な私でいいじゃないか

手始めに今年の1月、人生初の金髪ショートヘアにした。これがかなり周りからの評判が良く、自他共に認めるほど表情がこれまで以上に明るくなった。
その後は金髪ショートヘアに合わせて、これまで好んで着てこなかったミニ丈のワンピースやジーンズスタイルの服装を増やした。幼少期以来お目見えしていなかった膝小僧が綺麗だと、同性の子に褒められたのがちょっと自信に繋がった。

「もしや、本来の私がこっちだったのでは?」と思い始めた頃には、根拠のある自信というものが芽生え始めていることに気付いた。

おじさんリスナーの言葉はいささか言葉足らずではあったが、「もう背伸びしなくていいんじゃない?」と言いたかったのではないかと言葉の意図をくみ取ることができ、飛行機の窓から見える小さな家々を見下ろしながら小さく微笑んだ。
背伸びなんかせず、「普通」じゃなくたって「特別」な私でいいじゃないか、と。

そんなことを書き連ねていると、機体が羽田空港に着陸したようだ。
座席前のモニターの反射を利用して革ジャンの襟を正し、地にしっかり足をつけて今この時を楽しむべく目的地に向かおう。