2011年3月11日14時46分。
東北で大地震が起こった。東日本大震災だった。
当時私は高校2年生。春休みが近く、昼過ぎに帰宅しご飯を食べていた。楽しみに見ていたテレビ番組が、家のグラっとした揺れとともに突然ニュースへと変わった。

揺れとともにテレビ番組はニュースに。初めて見る光景が広がった

番組が良いところでプツンと途切れて少し不快な気持ちになったが、そんな気持ちが吹っ飛ぶような衝撃的ニュースがその後に流れた。
最大震度7の地震。自分が生まれてから初めて見た震度7。
瓦礫が散らばる道路の映像や、建物の窓ガラスが粉々になっている映像が広がっていた。そんな光景に目を奪われる中、姉から連絡がきた。
「高いところに避難するようにって今避難している」
地震が起きた場所は東北。姉がいるのは三重。そんなに離れていても津波が来るの?驚きだった。それと同時に、震源地に近い東北はどうなるのだろう?と不安がよぎった。
そして間もなく不安が現実となった。車や建物がいとも簡単に流れていく。

思い出すのは9.11の同時多発テロだ。映画のようで非現実的過ぎたからだった。
こんなことが実際起こっているのか、まるで実感が湧かない。フィクションのような光景が次々と流れていく。
波が街を飲み込んでいく。悲痛な叫びと共に消えていく街の姿を、テレビ越しに見ることしかできなかった。

参加すると決めていた大会の開催地は福島。誰も引率したがらない

そんな出来事から5ヶ月後。学校でも事件が起こった。
全国高等学校総合文化祭に出場するか否か。高校3年生最後の夏の全国大会。県大会で勝ち取った全国への切符。私は絶対に出場すると決めていた。しかし、学校側が渋る。
なぜなら開催地が福島県だったからだ。誰も引率したがらない。何かと理由をつけて拒んでくる。余震が起こるかもしれない。放射能の危険がある。他県の出場者もたくさん辞退している。健康のことを考え、辞退すべきだ。
言いたいことはわかる。そんな危険なところに先生たちは行きたくないってこと。でも、私は、被災地である福島県が開催すると言っているのだから、絶対にいくと決めていた。大変な中、開催するという決断をした福島県の想いを無駄にしたくないとも思った。
私が行くと言い張ったため、渋々先生が一人引率することになった。

大会は夏。私は半袖、スカートの制服に、先生は長袖長ズボン。私はいやらしいと思ってしまった。放射能に対するあからさまな態度が気に入らなかった。
でも、私は私、先生は先生。やるべきことを考えて試合会場へ向かった。

試合会場へ向かうバスから見える風景は、正直キレイとは言い難かった。壊れたままの建物。割れたままの窓ガラス。でも、現地の人は皆明るく挨拶してくれて、「今、復興に向けて頑張っているんです」と力強く話していた。タクシーの運転手さんも「これでもだいぶ戻ってきてるんですよ」と少し目を細めながら話してくれた。
きっと、この5ヶ月の間に、数え切れないほどの困難があったんだろうと感じた。

私は、大会が無事に終わり、お世話になったビジネスホテルにお礼の手紙と三重県の伝統工芸の手作り伝承連鶴をそっと机に置いて、福島の地と別れた。

手紙と共に送られてきた福島名産品のダルマに、涙があふれた

大会のことも忘れかけていたある日、私のもとに小包が届いた。福島県の住所。お世話になったホテルからだった。

「わか様 あたたかいお言葉ありがとうございます。励みになります。復興に向けて精一杯頑張っております。こちらは福島の名産のダルマです。……」
と、手紙と福島の名産品である紅白ダルマが入っていた。
涙があふれた。

5ヶ月経っても修復されていない建物の多さに愕然としたあの時。私だったら頑張れと言われても頑張れない気がした。
それでも福島の現地にいる人は、他県から来た私をあたたかく迎え入れてくれた上、復興に向けて精一杯力を注ぎ、たった一人の学生にお礼までしてくれた。
手紙の最後は「がんばっぺ!」と方言で締めくくられていた。なんて強い人なんだ。なんてステキな人なんだ。なんて素晴らしい街なんだ。感動した。

私はもらったダルマの片目を黒く塗った。もう片方を塗るのは、また福島に行った時にしようと決めた。
お礼がしたい。福島ってこんなにいいところなんだって発信して、無力かもしれないけど、何かの役に立てたって思えたら、このダルマの顔を完成させようと思う。