「知りたいから、行く」。東北の現状と復興を自分の目で見たかった

2011年3月11日。
大震災が起こったあの日、私は被災地から離れた県に住んでいた。
何メートルなのか見当もつかない高い波、地面の大きな割れ、モザイクだらけの海の写真。
テレビから連日流れてくるその映像の数々に、中学生の私は何が起こっているのか分からず、ただ怖かったことを覚えている。

時は経ち、私は高校生になり、進路を考えるうちに「人の役に立ちたい」という思いがとても強くなっていた。もともと発展途上国の支援に興味があったこともあり、ワークショップに参加したり、頻繁に講演会に足を運んだりと、様々な経験をさせてもらっていた。
「理不尽な目に遭っている可哀想な人たちを助けたい」
あのころの私はきっと、そう思っていた。

そんなとき、学校で東北への1泊2日のボランティアの募集があった。地元の方々からのお話を聞くことができ、瓦礫除去などの作業ができる。そう聞いて、もちろん私は「行きます」と即答した。
私にも復興の手伝いができる。誇らしげにそう伝えると、家族から思わぬ声が返ってきた。
「そんなもの行っても何の意味もないぞ」
いつもは優しく穏やかなはずの、祖父の言葉だった。
「どうせ何もできないし、変わらん」
「高校生が2日行ったところで何にもならんだろ」
一瞬、頭が真っ白になった。
たしかにそうだ。現地ではずっと、復興に向けてたくさんの人が労力を割いている。田舎の高校生がちょっと行って手を出したところで、それは微力どころか下手をすれば邪魔だ。
でも。
「知りたいんだよ」
口をついて、言葉が出ていた。
「私が、知りたいの。いま東北がどうなっていて、どうやって復興しようとしているのか。何もできなくても、知りたいから、行きたいんだよ」

祖父はちょっと怪訝な顔をしながらも、納得してくれた。心配そうに見つめていた母も、少しほっとしたようだった。
そうか、私は知りたかったんだ。実際の状況を、自分の目で見たいんだ。そう気づいた瞬間でもあった。

ボランティア先に行って知ったのは、私は無力だということだった

ボランティアの行き先は、仙台だった。
仙台駅は広くピカピカで、道路も綺麗だった。想像の何十倍も都会で、私達なんて不要なほど復興しているのでは?と思ったが、バスで市街地を抜けて沿岸に進むと、辺り一面は更地や家の残骸ばかりになった。皆、しんとして外を見つめ、地元の方のお話を聞いていた。

1日目はお話を聞いて、沿岸の家々の跡地や避難所をまわり、就寝した。
2日目は半日、炎天下の中、畑だった広大な場所で瓦礫をひとつひとつ手で除去し、その後開催されていた七夕祭りをまわって家路についた。

帰る前、商店街の千羽鶴でできた美しい大きな七夕飾りを眺めながら、この2日を思い返した。
そう、祖父の言う通り、私は何も出来なかった。都市部と正反対にまったく元に戻っていない荒れた更地を前に、言葉を失った。唯一手伝えた畑の瓦礫除去も、終わらせることはできなかった。
私は無力だった。それを、ちゃんと知った。

私一人の力は小さくても、いつか誰かの力になると信じていたい

家に帰った私はその後、変わらぬ日常を過ごし、大学に進学した。大学では発展途上国の農業開発の勉強をしたり、福島に行って農業総合センターを訪れたりもした。
それでも、いろんな人と会い、話を聞き、勉強すればするほど、自分にできることなんてほんの些細なことでしかないと思い知った。
「理不尽な目に遭っている可哀想な人たちを助けたい」
いつかの私はきっと、そう思っていた。
被災、戦争、貧困の渦中の人と関わることで、私は少しずつ考えが変わっていった。
理不尽な目に遭っていても、そこで戦っている人たちがたくさんいる。それは可哀想な助けを求めている姿ではなくて、誇りや信念を持って立ち向かっている、勇ましい姿だった。

私は、たくさんの誰かを、この手で一気に助けることはできない。できるのはきっと、知ろうとし続けることだけだ。なにができるか考え、微力でも続けることだ。
それが、いつかの誰かや私自身の力になると信じて。