2018年5月。オーストラリアの科学者がスイスへ渡り、自死した。彼は104歳だった。日常生活の質の低下を理由に死を望み、スイスの自殺ほう助機関を頼り、成し遂げた。

このニュースを見たとき、死ぬことをコントロールすることへの忌避感の中に、一筋の羨望を感じた。
自殺ダメ絶対。この考えに異論はない。でも、1日1秒、常に絶望し続けながら生きながらえるのに、人は耐えられるのだろうか。

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私は太く短い人生がいい。子どもがひとり立ちして、行きたかった海外旅行を終えたら、あっさり死ぬのが良いと思っている。50歳を超えたら、長生きしてしまったと感じてしまうかもしれない。

それは、老後の展望に希望を持てない、というところから来る願いだ。
なかなか上がらない給与。半分近く税金と社会保険料で消える。ままならない貯金。破綻する未来しか見えない年金の構造。多分、私たわちは払っておいて受け取れない世代だ。ならば、と貯金をしたくても難しく、死ぬまで働き続ける他ない。
給与が少ないのは自己責任。社会のせいにしている。これだから最近の若者は。
そうやって押さえつけられて、労働力を消費されて、でも結婚しろ子供産めと圧をかけられて。
老後どころか、今も希望を持っていない。

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高校の家庭科の先生が、老人の負担が大きい世の中だ、とよく言っていた。
当時50代女性であった彼女は様々な愚痴をこぼしていた。若者に気を遣わなきゃいけない。税金や医療費が高い。年寄りは世間からいじめられている。そしてある日、今日は世の中大変だと思うことを紙に書いて提出してください、と授業中に言い出した。
日頃の愚痴を聞いている我々生徒は忖度し、老人の苦労を踏まえた内容で提出した。
この紙は無記名提出だった。そこで私は、あえて若者の薄給や重税についてしたためた。
「そんなことない、一番辛いのは私たちの世代!」
その紙を読み上げ、ヒステリックにも叫ぶ先生。そして、誰が書いたの、と幾度も繰り返していた。

私は手を挙げた。面倒な状況にしてしまった、というクラスメイトへの申し訳なさがあったのだ。明らかに、私は大人になり忖度するべきだった。
先生はヒステリックさを収め、代わりに諭すように懇々と「老人が世の中からいじめられているのよ」と私に訴えた。それに同意し、嵐のような時間が終わった。
家庭科の実技もペーパーテストも、良い成績だった。しかし想定していた評価より一段下だったのは、この件が関係していると疑っている。さすがに逆恨みだが、友人の評価との比較もあり払拭されない。

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それはともかく、上の世代から押さえつけられている絶望に気づいたのはこの時だった。そしてずっと、絶望し続けている。
親戚と接しているとき、ゼミ飲み会で大学の先生が話す内容、上司とのやりとり。

自分の心身は少しずつ老いる。その上で絶望しながら、働き生きていくのは、私には無理だ。ある種、上の世代のツケとも言える負の遺産を引き受けて、抱えて一緒に死んでしまおう。下の世代に苦しみを残さないようにして。そう思うことでやっと、その為にもうしばらくは生きていようと納得できる。
その時が来たら、生きる意味を失ったら。104歳でなくとも、自分の人生を自分の手で終わらせてもいいのなら。苦しい毎日の救いになる。