この28年間の人生を思い返しても、やる気のない時が9割で生きてきたことに疑いはない。
そもそも初潮を迎えてからは、月の半分は感情をコントロールすることすら大変なのに、部活の試合前の練習で「集中しろ」と怒鳴られたり、上司に「もっと愛想良くしろ」と注意されたり……。男性の型でくり抜かれた社会に、私はどんどんやる気を出すタイミングが分からなくなったような気がする。
そもそもやる気ってなんだっけ?
必死に目の前のことにかぶりついていること?
それとも、この自分の型に合わない社会で文句を言わずに戦い続けること?

先日、韓国のフェミニスト集団についての本を読んだ。彼女たちが抗議をする時の服装は真っ黒。短い髪にキャップ帽、全身ブラックという出立ちらしい。
その姿を想像すると、ある出来事を思い出した。それは数年前のとある日のデートでのこと。

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彼の誕生日が近かったこともあり、表参道のイタリアンを予約した。その時の私の服装は、ブルーの生地に大きな色鮮やかな花が描かれたサマードレスを、8センチのピンヒールと合わせたスタイル。
そんな私を見た彼の一言は「綺麗だね。君の気持ちを感じる」とやけに嬉しそう。つまり「やる気のある」ファッションだと彼は受け取ったということだろう。

うーん、当時は笑顔で流したが、今更ながら微かな違和感を感じる。
確かに、彼のバースデーディナーに則したスタイルを選んだ。しかし、それが私のそのディナー/彼に対する「やる気」だったのかと言われると、それは違うのではないか。
あの夜を彩りたかった気持ちに一点の曇りもない。ただ、あのハイヒールにワンピースは「女性らしい格好=やる気」を表現したかったのではなく、大好きな彼の特別な日を祝う際に身につけたい「私の思う最高に綺麗な格好=自由な意志」の結果なのだ。「彼の隣の」綺麗な格好をした女ではなく、ただ綺麗な格好をした女になりたかっただけ。

こんなことを言うと、「可愛くない女」という声が聞こえてきそうだが、男性の性的興奮を煽るために化粧も洋服も選んじゃいない、という事実を否定はできない。
その意志の現れが、あの韓国の女性たちなのではないだろうか。そこまで自明なスタイルをとらないと、この事実が伝わらない世の中だから……。

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そんなもやもやした気持ちに光を一筋さしてくれた出会いがあった。それは大学の先生で、履修することになったとある講義の担当教員。
彼女は見るからにファッションを楽しんでいるのが分かる。そしてトレンドを積極的に取り入れている一方、整えられたショートカットに意志の強さも感じる。
ただ、化粧っ気はほとんどない。そのバランスが絶妙で心底かっこいい。

そんなある日、彼女が完璧なメイクで登場した時があった。そのギャップにくらくら……。そして思った、これだ、と。
彼女がその日、どんな用事や理由があってメイクアップしたのかは分からない。ただ、彼女の意志のもとでアイシャドーを乗っけることにしたのだろう。少なくとも彼女が大学教員で、普段相手にする学生を舐めているから化粧をしない訳ではない。
「化粧=社会的マナー、やる気」という公式が彼女の中にないことは、普段の講義から既に伝わっている。それでも色を顔に乗せる時がある、それこそが彼女の自由の行使なのだろう。

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洋服も化粧も、「誰か」に向けたやる気のアピールではない。そんなものでやる気を測られるなんて堪ったものではない。
そう考えると、やる気とは自分の内在的なパワーのことで、それこそイレギュラーなもの。それを常日頃から出し続けなければならないなんてナンセンス。この共同社会の中、やる気がなくても周囲に失礼なく過ごせれば、それでいいではないか。

決して見た目とその内在的な力を結びつけることのないように、そして、眉毛のない顔でも仕事ぶりの評価につなげないように。下腹部での出血時に赤リップなんてつける気にならない、そんな型を尊重できる社会を思い描いて。