譲ったもの。妹や姉と被ったお菓子やおかず。クラスでの役割、エトセトラ。
でも、どうしても譲れなかったものがある。
諦めろ、現実的ではない、そんな言葉をもらっても譲らなかった。
これは高校1年生の自分が日本語教師になる夢を見つけて、8年かけて実現させた記録だ。

外国語としての日本語授業で、日本語教師という夢を見つけた

高校1年生の冬。私は短期の海外研修に行った。
テレビドラマで見たような、大きい校舎、教室移動だけで十分な移動になる広大な敷地。そして日本で見るのとは少し違う青い空。日本語が聞けるのは昼休みにクラスメートと会う時だけ。それ以外は全部英語という環境に戸惑いつつ、苦労しつつ、楽しみつつ日々が過ぎた。
最終日。ある出会いがあった。学校側が日本語の授業に参加させてくれたのだ。
外国語として母国語を見る機会なんてそうそうない。私は授業を心待ちにしていた。
始まった瞬間、違和感に襲われた。生徒の発音でも、漢字やひらがなの表記ミスでもない。予想していたのと何か違う。そっか、生徒たちはネイティブから日本語を教わっていないんだ。
今考えると、海外の公立学校で日本人が教壇に立つことは容易ではない。現地の大学に通い教員免許を取得する必要があるし、常に日本語のニーズがあるとも限らないからだ。
当時の私はそんなことを考えられず、「なら日本語ネイティブとして日本語を教えられる人間になれば良いんだ!」と閃いた。
日本に戻った私は日本語教師という職業を見つけた。夢への第一歩である。

日本語教師という夢を見つけた私がもらったのは、応援でも賛同でもなく、反対の声だった。

――日本語教師は国家資格じゃないから待遇が良くない。
――日本語教師だけを目指すのはもったいない。せめて教員免許も取らないと。
――資格は取れても需要があるとは思えない。

親や恩師の反対意見はごもっともだったが、そんなことでへこたれない意思だったので、高校3年間、日本語教師の資格が取れる大学を志望校にしてきた。教員免許が取得できる大学のなかには日本語教員養成課程がある大学も存在するので、しょうがない。教員免許も取ることにした。

生徒の「なぜ?」に答えられない。文化の背景を知る目標ができた

大学2年生になった時、当初の予定を変更して、留学ではなく偶然見つけた日本語教師アシスタントに参加することを決めた。2019年の春のことだった。
日本語教師アシスタントとして降り立った国は、偶然にも高校生の時に語学研修で訪れた国だった。あの時とは自分の立ち位置も目標も違うけど、自分の視野を広げてくれた街に戻ってこれたことは運命だと思っている。

自分が大学で学んできた外国語指導とのギャップに戸惑いながら、目まぐるしく日々を過ごした。先生方のご厚意で授業をさせていただいたこともあった。教育学部出身ではない私にとって同期よりも早く、教壇に立つ経験を掴めたことは、今でも大きな価値があったと思う。
「日本の文化を教えて欲しい」と頼まれた時、私は今までの延長線上だと感じていた。
「この子達は言葉の意味や日本の文化を知っているけど、背景は知らない。だから、あなたが教えてあげて」
日本語教師になるという夢を見つけてくれた国で、私はまた大きな衝撃を受けた。

――なんで日本人は現金が好きなの?カードのほうが便利じゃん。
――なんで、和菓子には生菓子、半生菓子、干菓子と、3つも種類があるの?

「なんで?」に答えられない自分がいた。日本語や日本文化について教えると意気込んでいたのに、何一つ日本のことについて語れなかった。今まで勉強したことを活かすどころか、何も知らない絶望感が一番のお土産だった。
日本に帰った私に待ち受けていたのはゼミ選択だが、私は入るゼミをすでに決めていた。日本文学を研究するゼミだ。
日本語教育を専攻したという称号を捨ててまで文学を研究する理由。学内にあるゼミで一番文化の背景を探れるから。ただ「日本語教師になりたい」から、「背景を教えられる日本語教師になる」、大学生活後半の目標だ。

コロナで状況は一変。日本語教育への思いも実習も消えた2年間

そのゼミにしては数年ぶりに行われた選考を勝ち抜き、教職課程の教育実習も確定した2020年の春。世界は変わった。コロナだ。
通っていた大学は留学生に日本語を教えることを日本語教育の実習にしていたが、留学生が来日できないことから実習は休止。一部の授業もオンラインに対応出来ない内容であることから開講できなくなった。アシスタントで学んだことを一番活かせる時期に何もできず、就職活動が始まることも相まって、日本語教育から離れていった。

友達との約束も家族で予定した旅行も、日本語教育の思いも何もかも消えた。
2年近く、無機質な日々を過ごした。

高校での教育実習が終わったと思ったら、日本語教育の実習が始まった。お互い理解できるのは日本語、生徒たちが何を話しているのか全くわからない不安との戦いだった。
日本語教員養成課程のみを履修している同級生の大半は不安と緊張に苛まれていたが、私は高校で実習を乗り越えていたので、かなり落ち着いていた。不安や緊張がなかったわけではないけど、高校の実習の反省を活かすと想像以上に授業はスムーズに進んだ。

高校から8年もの間、大事に守った夢がようやく実現

淡々と実習の日々が過ぎ、いつの間にか卒業まで残り1ヶ月を切った。
昨年度は開講出来なかった日本語教育に関する講義が実施されるので、学生生活最後の春休みを返上して講義を受けていた。ゲストスピーカー達の話に心動かされる自分がいた。
「日本語教師になりたい」
コロナで消えた熱が戻ってきた。卒業間近に内定先を辞退した私は、日本語教師の求人に応募してみた。就職活動中は頭を悩ませてきた志望動機も自己PRも簡単に書けた。

3月上旬。大学からの連絡を確認すると、私の卒業が決定した。あと、日本語教員養成課程の修了も。
高校生の時から譲らなかった、夢が現実になった。
教壇に立ってないからか、全く実感がなかった。たぶん、ようやくスタート地点に立てたから。高校生の時、日本語の授業を受けた日と同じ日だった。

私の譲れなかったもの。それは私が自分で見つけた夢。ドラマや映画に影響を受けやすい私が、8年もの間、大事に大事に守って、ようやく実現した夢。
秋から、夢にまで見た日々が始まりそうだ。