ずっと教師になりたかった。
祖父が高校教諭、母も高校教諭、叔母は幼稚園教諭。教員一家で育ち、私も教師になるのだと、幼いころから疑わなかった。
私は、大学2年の夏、教職課程を辞めた。

私が考えた生徒への教授方法は、「ラク」で「逃げ」らしい

2年次、教育実習にむけた「教育実習予習」のような講義が必修だった。
「教育実習予習」の講義は、まず五人くらいの班になって、教授が考案した、社会科のいわゆる「穴埋めプリント」をどのように教授するか話し合う、という形だった。
まず生徒たちで話し合わせるという意見、教科書の中から答えを探させるという意見。
私とは違う意見ばかりだった。
私は、まず答えを言い、それから付随してくる疑問や関連したできごとを解説するのが良いと考えた。
しかし、班の仲間が言うには、それは「ラク」で「逃げ」らしい。

「自称進学校」の出身中高は、流行りはじめた「アクティブラーニング」を売りにしていて、よく「話し合い」や「自分で答えを見つける」ことをさせていた。
私はそれが大嫌いだった。
学校が答えや知識を渡してくれないならば、学校へ行く意味はない。「ラク」で「逃げ」なのはそっちだ。そう思った。
だから私は、教職課程の仲間が、大嫌いな方法を取るのが最善であると言うことに、失望した。
よく「自分が教育を変えてやる」と学校が嫌いだった人が教諭になる話があるが、私にはそんな熱量はなかった。
失望したから教職課程を辞めることにした。

教職課程を取ったのは「母が喜ぶ私」になりたいからなのか

そして何故、教職課程を取っていたのかわからなくなった。
一学年下の弟は教育学部に進んだ。幼稚園教諭と保育士の免許を取るらしい。
母は定年が近づいているが、定年後も再任用で学校に残りたいという。
教員一家で育ち、教職課程を取ることが当たり前だと思っていた。
でもなぜ学校が嫌いなのに、教職課程を取ったのか?
もしかして、私が教職課程を取ったのは、「母が喜ぶ私」になりたいからなのか?

ずっと母に認めてほしかった。
小学校一年のとき、読書感想文で入賞した。
全校集会で表彰されて、寄り道もせず家へ帰り、真っ先に母に賞状を見せた。
母は「え、入賞かあ」と言った。
しきりに「はあ」とため息をついた。「えー」と言った。
私はしばらく「入賞」は「恥ずかしいこと」だと思っていた。
中学受験に失敗し、私立の滑り止めに合格したとき、母は「でも本命は落ちてるからね」と言った。
大学受験で20校ほど受けて一番偏差値の低いところにしか受からなかった私に、母は一度も「おめでとう」と言ってくれなかった。
ずっと母に認めてほしかった。

「なりたい教員像」という課題に、一文字も書けなかった

「なりたい教員像を述べよ」という課題は、一文字も書けなかった。
教員になることは自分の夢ではなかった。
自分の夢を生きていない自分に失望したから、教職課程を辞めることにした。
教職課程を放棄すると、二度と出身大学では教職課程を取り直すことはできない。そういう決まりだった。
でも私は、後悔していない。むしろスッキリした気さえする。

20歳の夏だった。遅い青春だけど、私は私のやりたいことを見つけ、今は大学院に通っている。
母の夢でなく、私の人生を歩き出している。