結論から先に言おう。私は彼を“嫌い”になったのではない、 “好きじゃなくなった”のだ。

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2ヶ月ほどのデート期間を経て、彼とお付き合いすることになった。付き合った期間は、3年くらいだろうか。
出会いは誰かの紹介。典型的な出会いのパターンだ。
告白されて付き合った彼とは、大きな喧嘩もなく、穏やかに過ごしていた。一緒に祭りに行ったり、遠くに出かけたりもした。喜怒哀楽を共にし、私のことを一番に分かってくれている人、そう思っていたのだが、なぜ私は彼のことを好きじゃなくなったのだろう。
今になって考えれば考えるほど、不思議でたまらない。

それは、決して“嫌い”になった訳ではないのだから。

価値観は合っていた。好きな食べ物も、趣味も似ていて、話が合う人だった。
なぜ別れたのだろう。私に彼以外の好きな人ができた訳でもない。隣にいることが当たり前になり、刺激が足らなくなった?
それは、倦怠期とも言えるような気もする。一緒にいることに慣れてしまっていたのだろうか。

恋愛感情ではない、別の“感情”が湧き出ていたとしたら、その“感情”をあの時の私は理解できなかったのだろうか。
罪悪感はないと言ったら嘘になる。好きでも嫌いでもないその状況は、情なのだろうか。
情。それは、嫌いでも好きでもない、何かの間にいるような感情でもある。家族を思う気持ちと同じなのだろうか。ペットを思う気持ちと同じなのだろうか。

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「ごめん、好きじゃなくなった」
と告げる。
そんな、自分勝手な私の理由に、
「分かった」
そう返事をする、彼の姿を思い出す。

あの時の私は、空っぽだったのかもしれない。
例えば、やかんの中にお湯を入れて沸騰させていると、蒸発していずれお湯は無くなってしまう。
空になったやかん。空焚きしてもただ焦げてしまうだけだ。彼に別れを告げるときの私は、焦げたような空っぽの状態だったのだろうか。
そんな一つの恋愛を経験して、私が思うこと。それぞれが持っているやかんには、溢れない程度の水を常に入れておくことが必要だ。溢れない程度というのが重要だと私は思う。だって、やかんから水が溢れたら火は消えてしまうから。

わたしは、別れてから、よりを戻すことはしない。これから先の恋愛では、その考え方がひっくり返されることもあるかもしれないけれど。
よりを戻す。その行為は、空焚きしたやかんに、水を補充することと同じだと思う。
空焚きのやかんに水を補充して、もう一度温めることはできるのだろうか。もしかしたら穴が空いていて水が漏れるかもしれないし、水が入ったとしても、焦げた味しかしない。美味しくない水は飲みたくないから、よりは戻さないようにしている。
今までも、これからもそうだ。

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人は悲しくなると、涙を流す。
別れた日の夜、私は泣いていた。涙が出てきたのだろう。罪悪感からなのか、それとも悲しみの涙だったのだろうか。何かの感情が私を引っ張っている気もした。
生きている限り、私たちは感情に大きく支配される。恋焦がれていた相手と話す時、胸がキュンとして、ドキドキするだろう。煮えたぎるお湯のごとく、怒り狂う時もある。悲しみや、苦しみで胸が張り裂けそうになることだって。
一つ一つの感情を言葉にしていると、どんな言葉にすればよいのか分からない思いも出てくる。その一つが、情なのだろう。

病める時も、健やかなる時も……。
その物語が終わる日まで、私たちは感情と共にある。
“好きじゃなくなった”その感情の意味が理解される日は訪れるのだろうか。