生活音の中で一番好きな音は、電気ケトルのお湯が沸く時の音である。
水を入れ、台においてスイッチを押す。
後は待つだけ。
ボコボコボコッボコ、カチッ!ボコボコボコ…
よーい、どん!で何かが始まるような、大好物を前にした「いただきます」のような、
楽しみなことが始まる合図が、この音、ボコボコボコ、である。
我が家に電気ケトルが来たのは、確か私が小学校の低学年の頃だった気がする。
電気ケトルはボタンさえ押せば勝手にお湯が沸き、沸騰した瞬間が音とランプでわかる。
そんな便利品は両親共働き、父は単身赴任&出張で不在、やかましい子供3人の家庭にはもってこいだった。
母の帰りが7時を過ぎる時は、夕飯はたいてい丼ものとインスタント味噌汁だった。
豚丼、親子丼、時々三食丼のヘビーローテーションが基本。
母はバタバタと帰宅すると、息をつくのも束の間、早速キッチンに立って夕飯の支度を始める。
細く切った玉ねぎと豚コマをフライパンに投入すれば、ジュウジュウと炒める音がキッチンに響く。
醤油、みりん、料理用酒の黄金の組み合わせが、炒めた具材と絡まり香ばしい匂いがリビングまで漂い始めると、そろそろだ。
「味噌汁のお湯沸かしてー」
そらきた。母から頼まれ、電気ケトルをセットする。
インスタント味噌汁のパッケージからできる限り味噌を出し切ろうと、パッケージを細く折り畳みながら味噌をお椀に出す。
指についた味噌をなめているとカチッと軽やか鳴りお湯が沸く。
その頃に豚丼の具材は出来上がっていて、ようやく待ちわびた夕飯だ。
合格祝いに先生からもらった電気ケトルが新生活の相棒
時は経って、22歳。地元を離れて大学に通っている。
毎晩、寝る前に遠距離の恋人と電話をしている。
「電話いつでも大丈夫だよ」
相手からL I N Eが来ているのを確認すると、まず電気ケトルでお湯を沸かす。
カチッと音がしたら準備完了。
「お待たせ」
L I N Eの返信をすると、電話がかかってくる。会話が始まる。
白湯を飲んで温まりながら、恋人と電話する時間。今日も一日頑張った自分へのご褒美である。
ちなみに現在使っているケトルはもらい物である 。
時は少々戻って19歳。一年の浪人生活を経て、地元から離れた大学に進学が決まり、一人暮らしをすることになった。
浪人の1年間、応援し続けてくれた一人の先生に合格報告をした時、「合格祝いは何が良い?」と尋ねられ、「電気ケトル!」とふざけて答えた。
1ヶ月後、一人暮らしのアパートに先生から本当に電気ケトルが送られてきた。
新生活の始まりには電気ケトルが一緒だったのだ。
他のものでは代用できない……大事なものは失って気づく
そんな大切な電気ケトルだったが、一度壊してしまったことがある。
22歳、アパートからシェアハウスに移り住んだ後のこと。
普段、自室の床に置いてコードをつなげているのだが、電気ケトルの上に本を落としてしまった。
運の悪いことに、取手の上部にある湯沸かしスイッチに本がクリーンヒットした。
スイッチを押してもふにゃふにゃとするだけで全く反応しなくなってしまった。
これでは電気ケトルではなく、もはやただの水差しである。
何よりも、お世話になった先生にもらった代物を失ったショックが大きすぎた。
仕方ないので、しばらくは共用のキッチンにある、やかんでお湯を沸かして我慢した。
しかし、やはり、やかんでは満足できない。
沸かしている間、ガスコンロから離れられないし、何よりもあのボコボコボコ音がないのは物足りない。
シェアメイトさん達は、「やかんの方が電気ケトルよりも早い」とやかん派が多数。
だが、私が電気ケトルでなければ「お湯を沸かす」という労働に高揚感を感じることはできない。
大事なものは失って気づく、とはまさにこの事だ。
ボコボコと沸き立つ泡のように心も弾む、自分へのご褒美時間
打ちひしがれていた私だったが、あるアイデアを思いついた。
シェアハウスの共用キッチンにはバーカウンターがある。
そのカウンターに壊れたケトルとメモを置いておいた。
「誰か直せる人いませんか?」
数日後、電気ケトルと一緒に置いたメモに、小さな文字で、
「細いドライバーがないと厳しいです」
と、なんと誰かが返事を書いてくれているではないか!
そこで、100均でドライバーセットを購入し、電気ケトルの隣に置いておいた。
次の日、なんと電気ケトルが直っていた。
直してくれた住民さん曰く、内部の部品が折れていたらしい。
どうやって修復できたかを何度説明されても理解できなかったが、何はともあれ、電気ケトルが無事復活したのである。
こうしてまた、今日も電気ケトルにお世話になっている。
水を入れ、スイッチを押すと赤いランプがつく。
ボコボコボコと音が聞こえ始めてきた。
水かさを見るための透明な窓越しに見える、沸き立っている泡みたいに心も弾む。
待ちきれずに水面に飛び出していく期待が、徐々に激しさを増す。
カチッと軽快に鳴り、ランプが消えれば、待ちわびた「楽しみ」が始まる。