人生って、楽しんだもの勝ちだと思います。
でも、楽しむって、ただずっと笑ってるのとは違うんだと気づいたのは、大人になってからのことです。

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毎日楽しいのは素晴らしいことです、人生は楽しんだもの勝ちなので、生きてる間めいっぱい楽しみたいって、思います。
でもそれは、自分にしか気づけない心の中の違和感から目を逸らすこととは違う。悲しいことや不安なことや怒りに蓋をするのとは違う。
人生をより良くしてくれるのは、笑顔でいることや、楽しい、嬉しい、みたいな、そんなポジティブな感情だけじゃない。むしろ、それよりも大切なのが、怒りとか悲しみみたいな、自分にしか気づけない、自分でしか測れない、違和感だと思うんです。

自分の心の状態を知ることができるのは自分だけです。
どんなことで苦しみや怒りを感じるかは、当たり前のことですが、自分にしか分からないものです。心の中で違和感が発生して、SOSを叫んだとしても、自分が気づいてあげられなければ他人は気づけるわけがありません。

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高校生の頃、親友がいじめを受けました。周りから見たら、それはいじめには見えませんでした。
一緒の部活、一緒のクラス、二人はいつも一緒。
私は二年生になったと同時にクラス替えでその親友とは離れ離れになってしまい、部活も違ったので、二人の仲良しぶりに嫉妬してしまうほどでした。
でも実際には、親友はいじめを受けていたのです(もしかしたら、いじめていた方はいじめているという意識がなかったかもしれませんが、いじめられた方が「これはいじめだ」と認識しているので、私はあの行為をいじめだったと認識しています)。

電話で毎日のように「お前のここがダメだ」「こういうところが気に食わない」と言われ続けていた、ということを親友が学校に来なくなってから聞きました。
上履きを隠されたり、教科書を破かれたり、仲間はずれにされたりしたわけではない。分かりやすいいじめがあったわけではなく、むしろ二人はいつも仲良さげだった。それでも、見えないところでずっと、二人の関係はおかしなことになっていたんです。
そして親友は学校に来なくなりました。

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私は、学校に来ない、という決断は素晴らしかったと今でも思います。
ずっと長いこと友達からの仕打ちを誰にも打ち明けず、一人で耐えてきた彼女が、自分の心の中でしか聞こえないSOSを聞き入れたのだと思いました。
学校で見た親友は、いじめを受けている最中でも、いつも変わらない笑顔で明るく、不安なことなんて何もないという顔をしていた。

どんな大学にでも行けるんじゃないかってくらい勉強が出来た彼女。学校に来なくなったら、友達は減るかもしれない、成績は下がるかもしれない、進学出来ないかもしれない。でもそれでいい。
自分に嘘をついてまで何かを我慢する必要なんてないって思います。逃げる場所があるなら、どこまでだって逃げればいいし、怒りたいことがあるならめいっぱい怒り狂えばいいし、泣きたいなら一晩でも一週間でも泣けばいい。
何か違和感を感じているのに、ニコニコするなんて、それこそ自分いじめだって、思います。

だからちゃんと自分を安全なところに逃した親友に、私は拍手を送りたいのです。よくやった、よく逃げた、よく自分に嘘をつかなかった、と。
そしてその思い出に、自分に嘘をつきがちな私はいつだってはっとさせられるのです。
どうか違和感を見ないふりしないで。どうか悲しい時に涙をこらえないで。
自分にだけはどうか嘘をつかないで、どうかそれだけは忘れないで、と語りかけてくるのです。