高校生の頃、わたしはいじめられていた。
テレビで見るような、トイレの個室の上からバケツの水がかかってくるとか、派手な演出は決してなく、もっと些細で陰湿だった。
最初は、うっすらと霧が広がっていくような違和感があった
ある日、球技の授業があって、ハンドボールをすることになった。高校生ともなると体育は男女別になる。男子の目を気にしなくてもいいのは好都合だった。
私の知っている限り、いじめというのは一対一で行われることはなく、ほぼ多数対一の構成で、私もそうだった。
リーダー格の女子が、みちるさんさ、たしか走るの苦手だよね、キーパーどうかな?と言い出す。そうだよねー、走らせるのかわいそうだしね、と周りの女子が親切そうに次々と賛同する。そうやって私の意志とは関係なく、私の役割が決められていく。私は何も言えなかった。
結局ゴールキーパーの役をさせられて、投げられる球は首から上に飛んできた記憶がある。私は足は遅いが、案外すばしっこい。顔だけは、と思いながら必死に球を避けているうちに、体育の授業は終わり、次の授業のために皆は教室に戻っていく。そんな気分が悪くなる出来事が続いた。
最初は、うっすらと霧が広がっていくような違和感があった。
あれ、もしかして私っていじめられている?
でも思い当たる節はなかった。いじめっこグループのメンバーとはまったく関わりがなかった。加えて私はクラスで目立つ存在ではなかった。
幼馴染の情報を教えていくうちに、いじめっこの態度が柔らかくなった
どこまでされれば自分がいじめっこに該当するのか、わからなくなるくらい自然で地味だった。クラスのグループ分けで自然と仲間外れにされていく感覚は、あの雰囲気は、された側にしか分からない。
ずっともやもやしていた。あんたのことが嫌い、とはっきり言われたほうがましだった。
いじめの終わりは突然だった。
いじめっこグループのひとりが気になっている男の子と私が偶然にも幼馴染で、その男の子のいろいろな情報を教えて欲しいと言われた。好きな女性のタイプ、好きな髪型、好きな食べもの。ひとつずつ教えていくうちに、味方にしておいたほうがいいと判断したのか、少しずつ態度が柔らかくなっていった。無視されることは続いたけれど。
なんでわたしはいじめられたんだろう。
友達に助けを求めて、最近あの子達に仲間はずれにされてる気がするんだ、と勇気を出して言ったけれど、笑顔のまま「えー、気のせいだよ、そんなことないと思うよ」で話は終わってしまった。変なこと言い出さないでよ、と怪訝な顔を見せていて、私はもう話し続ける気力も失せてしまった。「そうだよね、ごめんね」と急いで話を切り上げるしかなかった。
暗い雰囲気は人を不快にするようで、母もけだるい雰囲気を家に持ち込む私に段々と苛立っていった。絶対的な味方だと思っていたのに、母は言った。
「あんたもいじめたくなるようなことしたんじゃないの?その落ち着き払った態度とか、鼻についたんじゃない?」
言われてすぐは衝撃的で、泣いてばかりだった。でも言われたことを考え続けて、気づいたことがある。
いじめたあの子がいたから、客観的に見てみる重要性に気づけた
いじめられるまで、私は知らなかった。気づかないうちに私が誰かを不快にする可能性があること。いじめを正当化するつもりはこれっぽっちもないけれど、いじめをする側も弱い心を持ち合わせているかもしれないこと。明確な悪意はなくても、なんかむかつく、こんな曖昧な気持ちだけでいじめは起こること。いじめられて、いじめをする側の気持ちを考えて、初めて知ったことがたくさんあった。
あとから知ったけれど、私の母は柔軟剤が大好きで、日本ではあまり売られていない、よく香りの立つ海外製の柔軟剤を使っていた。ある人はいい香りがするね、と言い、またある人は、嗅いだことない匂いがする、ちょっと匂い強すぎない?と顔をしかめた。今は香害という言葉がある。いじめるきっかけにはなったかもしれない。
ある時、母を責めるようになんでこの柔軟剤使ってるの?と聞いた。
娘がくさいとか絶対思われたくないじゃない?と母はまっすぐに言っていた。母にとっては、愛情表現のひとつだった。
だから、私は母を憎まない。でもそれから香りのするものを付けすぎていないか、気にかけるようにはなった。誰かを不快にさせないように。
大事なことだから何度も言う、いじめを正当化するつもりはこれっぽっちもない。でも私をいじめたあの子がいたから、私自身を客観的に見てみることの重要性に気づけた。
自分が発する言葉、雰囲気、香り、思ってもみない部分が知らぬ間に誰かを傷つける可能性があること。辛くて悲しい思い出は嫌いだし、これからもなるべく出会いたくはない。だけど、もし何かあった時、すぐに自分を正当化して、考えることを放棄するのは避けたい。そしてずっと思い出して苦しまないために、向き合って、自分なりの区切りをつけたい。
許す必要がないことは当然ある。ただ、相手を責めるばかりではなく、もしかしたら自分のどこかがだめだったかも、そう考えてみる勇気は、持ち続けていたい。あの子がいたから、私はあの時より成長できた。そう思いたい。