月〜金曜まで毎日仕事に打ち込む。我を忘れる、という言葉がまさに合っているかもしれない。
PCに向かう間、とにかくミスのないように自分の仕事をして、他の方のサポートもして、ひたすら集中して仕事する。終わった瞬間倒れてしまうのではないかと心配になるくらいの量をこなしてこなして、毎日へとへとになって働いている。
25歳、OL、東京の都会で色んな人にまみれながら、生きる。満員電車につぶされながら、もう別に何とも思わないし、むしろ満員の方が立ちながら寝れるからいいとすら思う。

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そんな日々を送る中で、私は最近、自分の中の優しさというか思いやりというか、そういった目に見えないあったかいものを大切にしなくなった。
それは年齢による成長(いい意味なのか、わるい意味なのか)ともいえるかもしれないし、日頃のストレスによる鈍麻なのかもしれない。なんだか自分が何かを愛することだとか人を大切に思うことを拒んでいる感じが、いつからか明確にするようになったのだ。
まるでロボットのように生きることを望んでいるみたいで、その方が変に期待して傷つかないで済むと思っている。その裏には、愛されたい、人から好かれたい、みんなと仲良く笑いたいみたいな、子どもみたいな素直な感情・期待が溢れているのを、自分は知っている。
でも、そう上手くはいかないことを25年で学んできてしまったし、期待が裏切られた悲しみを知ってしまった。ようは酸いも甘いも、よく味わったいい大人なのだ。

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土曜日。お昼ご飯を済ませた後、1人でふらりと電車に乗った。平日の朝よりも何倍もすいている車内は快適すぎて、やっぱり満員電車はキライかもしれないと思った。
私の座っている席のお隣には家族連れがいて、幼稚園児くらいの男の子がお母さんと仲良さそうに話していた。どうやら水族館に行くようだった。キャッキャとすごく楽しそうにはしゃいでいる。
「水族館で何したい?」と聞くお母さんに、「大きいクジラと泳ぎたい!」と目をキラキラと輝かせて言う男の子。もちろん水族館に大きいクジラはいない(小さいクジラならいるところもあると思うが)。そんなことを聞いていると、拍子抜けしてしまって、なんだか急に普段カチカチに固まっている私の心がするりと解けてしまった。
「水族館にはクジラさんはいないかもね」
お母さんからそう聞くと、男の子はいきなり、明らかにしょぼんと落ち込んでしまった。そんな様子を見ていて、子どもってかわいいな、大人が抱かないようなことを平気で思ってるんだな、しかもあんなに楽しそうにしてたり悲しそうにしてたり、どこまでも素直なんだなって思っていた。
そして、そんな面白くてかわいい子どもを見ていると、私の中からじわじわほっこり温かな気持ちが出てきた。

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自分の望みを素直にはっきりと言えるのは、すごくいいことだと思う。大人になるうちに、傷つくことが怖くって、どんどん伝えることを放棄してしまう人も多いように感じる。私みたいに、自分の中にあたたかい気持ちや期待を抱くことさえ拒否している人もいるかもしれない。
今日男の子がクジラと泳ぐことは叶わなかったとしても、彼がもし水族館で魚の泳ぐ姿に感動すれば、もっともっといつかクジラと泳いでみたいと願いを抱くだろう。
描いた夢が叶った景色を見たとき、それはかけがえのない記憶として彼の中に残る。その夢見る心が連れていってくれたのだから、いつまでも大切にしなくてはいけないんだよ。そして、どんなものの始まりも、そんな願いや思いなのだと気付かされた日だった。