分厚いガラスの中で悠々と泳ぐ魚たちを見て、鬱屈した何かを感じてしまうのは「わたし」の性格のせいだろうか。いや、ここから出られない魚と「わたし」が同じにみえて苦しかったのかもしれない。
ただ「わたし」は、この水槽で一生を終えるここの生き物たちを見て胸がつかえる感覚を不快に思いつつも、この水族館という人工的に作られた生き物の箱庭が好きだった。
それは単に、非現実と未知の生物との邂逅が「わたし」の知的好奇心を刺激するからに他ならない。小さい頃から、「わたし」は生き物がいっとう好きだった。

その日、大好きな地元の水族館がリニューアルのため一時閉園すると聞いて見納めに行こうと思い立った。
まさかこの突飛な行動が後々の運命を変えることなど思いもせずに。

水族館での出会い。不思議と初めて会った気がしなかった

世はコロナ禍真っ只中。外出を気にする友人を誘うのも憚られ、「わたし」は単独水族館へ乗り込むことにした。リモートワークの叶わない仕事で、感染者数が大々的に取り沙汰される大阪の中心部を横目に毎日通勤しているため、さして一人での外出に抵抗はなかった。
かくしてお一人様水族館を決め込んだわけだが、寂しかったのは言うまでもない。孤独は苦手だ。可能なら皆と泳げる水槽の中に「わたし」も居たいと願った。
水槽の外に出るのは自由を欲する強い人間だけで、長いものに巻かれていたい臆病な「わたし」にとっては恐ろしいことであった。

しかし、なぜだろうか。外を泳ぐ人に惹かれてしまうのは。
その彼は、一人で、手に余るほどの大きなカメラを軽々と構えて水槽の中にいる魚たちに向けてシャッターを無心に押していたのだ。
彼は間違いなく外にいる人間だと直感した。水槽の中にいたいと望んだ「わたし」は、外の人間が真隣にいたことに少々驚きつつ、学生時代カメラが好きだったので高価なカメラを見て思わず声がもれていた。
「Nikonのいいカメラ..……」
ボソリとつぶやいた声に、彼はファインダーを覗いていた顔をおもむろにあげてこちらをみた。
「カメラ、お好きですか」
それが私たちの初めての会話だった。

お互い一人で来ていたから自然と一緒に水族館を回るようになり、同い年であること、高校時代二人とも写真部の部長をやっていたことなど共通点が見つかって盛り上がった。
不思議と初めて会った気がせず、夕日の沈む神戸の海を眺めながら、二人とも穏やかな心持ちだった。
これを運命の出会いと言わずしてなんと表現すればいいのだろうか。それから二人が男女の仲になるのにはそう時間はかからなかった。「わたし」は水槽の外にいる人を好きになった。

帰ってきたら結婚しよう。そう言い残して彼は東京へ行ってしまった

しかし、幸せは長く続かず、困難とは立ちはだかるものである。交際をはじめて半年とたたないうちに彼が東京に長期出張することを告げられた。
コロナ禍で東京へ行ってしまうことに、寂しがり屋な私はひどく狼狽えた。往来が規制される中、会えなくなるのはどちらかが言い出さなくてもわかりきったことだったからだ。

最初、「わたし」は彼を信じることができなかった。
広島から一人上京し大企業に勤めていた彼はとてもしっかりしていて、一人でも生きていける、そんな強さがあった。「わたし」がいなくても変わらず生きて、また新しいパートナーを見つけるのだろうと容易に想像できた。
水槽の外にいる彼と違って、「わたし」は一人では生きていけないほど孤独には滅法弱かったし、過去に不安障害で不眠になったり過呼吸持ちで怖がりな精神弱者。
「わたし」がいなくても生きていける彼と、彼の存在を心の拠り所にしていた「わたし」。
たとえ彼がいなくなっても死にはしないとわかっていた。しかし、心は確実に不安定になっていった。

結局、強がって、いい顔したくて、理解ある彼女だと思ってほしくて、昇進に響くといけないから行ってほしいと思ってもないことを口にした。
そして彼は東京へ泳いでいった。
帰ってきたら結婚しよう、という見た目は甘美で持ち上げて裏を見ると、腐っていたみかんのような言葉の餌を水槽の中に放り込んで。

離れていても、この人しかいないと思わせてくれた

コロナ禍かつ遠距離での交際は不安ばかりだった。
浮気をしないだろうか、コロナにかからないだろうか。心配症が過ぎる「わたし」に、彼は努めて安心させようと毎日連絡をくれた。
電話も頻繁に、出かけるとなれば同行者の写真まで。あの手この手で「わたし」が不安がるのを必死に宥めてくれた。東京からこちらへ帰ってくる時は必ずPCR検査を受けてくれた。

幸せなはずだった。本当に優しく、優しくむごい人だと思った。期待させて、させるだけで帰ってこないんじゃないかとずっと思っていた。いつ帰ってくるのかわからないまま、本当に結婚できるのかもわからないまま。
顔も人もいい彼は結婚詐欺師ではないか、東京に本妻がいるんじゃないか、まとめサイトの話を見過ぎた「 わたし」の被害妄想が止むことはなかった。

それでも、彼は毎日「わたし」を愛していると告げてくれた。疑心暗鬼で泣いて彼を責めた事もあったし、冷静になってなんて酷いことを言ってしまったんだと落ち込んだこともしばしばで。
情緒が不安定な中、それでも「わたし」たちが別れなくて済んだのは、彼の大人で真摯な言葉と体現によるものに他ならなかった。離れていてもこの人しかいないと思わせるには充分な愛情を、彼は「わたし」にくれた。そしてこんな「わたし」を欲してくれた。
だから「わたし」はどこまでも自由で、出会ったあの海と同じくらい愛の深いこの人についていこうと決めた。

コロナ禍は未だ止まない。しかし彼の出張はもうすぐ終わろうとしている。お互いの左手には2人で買った4℃の指輪が光る。同棲するための部屋探しや両親への挨拶も来月に控えている。
コロナ禍での遠距離恋愛ほど障害が多く辛いものはなかったが、これらが「わたし」たちの絆をより確かなものにしてくれたに違いない。

彼は嬉しそうに何度も「わたし」を可愛いという。そんな彼に「わたし」も世界一かっこいいよと返す。幸せを噛み締めて、 わたしは彼に惹かれて水槽の外へと泳ぎ出した。
いつかコロナが終息した時にも、わたしたちは手を取り合って、きっとここより大きな海へ泳ぎ出せるに違いない。