多様性だ、ダイバーシティとうたわれるようになった今日この頃、けれどもなんだかんだいって私たちは生きていると古い価値観にぶつかる。
同性カップルへのパートナーシップが全国に広がりを見せようとも、やっぱり「早くいい男捕まえて、孫の顔見せなね」と言われる。
女性の社会進出と男性ばかりの議員らが声をあげる一方、「女性に学問はいらない」と言われた時代からなんにも進化していない……大学の入学試験で女性受験生の合格点が男性より高く設定してあったなんてニュースを目にする。

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昔、平塚らいてうらが女性の権利をと活動した時代があって、きっとあの頃活動していた人々からみれば遠い未来を生きている私たち。
確かに変わったのかもしれない。かつては女性が声を上げづらかっただろうし、LGBTなどという言葉もなかった。
だけれど、実情「変わった」ように思えて、根本的には変わっていない。
LGBTのニュースを目にする機会は増えたし、声をあげやすくなった。
けれども、これから変わっていくのかどうかもわからない。多数派も少数派も認められる未来にこれからなっていってほしい、一年先、二年先と少しずつよくなってほしい。
でも、はたして本当にそんなに変わるのだろうか、ずっと「今変わっている気がする、これからよくなるだろう」の状態が続くのかもしれない、それはとても恐ろしいことのように思える。
変わることはとても勇気がいる。
何においてもそうだ。転職するときも新しい職場で一から色々なことを覚えなくてはいけないし、そんな面倒よりも転職せず勝手知ったる職場にいたいと思うのが人間のさがだろう。
転居するよりも、今いる抜け道も穴場の店も知っている町で暮らし続けることのほうが住みやすい。変わらないことは、楽なのだ。だからなんにも変わっていない、価値観においても。
「レズやホモはきもい」「男は働いて女は家を守る」「結婚して子供がいることこそ幸せ、未婚も子供がいないのも不幸」がずっと変わらずに居座っている。

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そんな価値観を説く人の多くは一定の年齢以上の人である。
酒の席でにやにやと「女だから」とお酌を要求するのは大概おじさんで、私と同年代の男は女に酒をつがせることはなく自分で酒をつぐ。近所にいるお節介に「貴方のためを思って言ってるのよ」と私が未婚であることをなじるのは大体おばさんなのだ。
私はそういう言葉に出くわすと、いつだってadoのごとく「うっせえわ」と心の中でいらだつのだけれど、ふいに気が付く。

別にそういう人らは傷つけようとして……「死ね」や「バカ」の類語としてその言葉を吐いているのではなく、それは、もう当たり前だから言っているのだ。上の世代においては「空が青い」とか「1+1=2」位の常識として「女は酒をついで男をたてるもの」「結婚して子供がいるこそ幸せ」が脳にインプットされている。
確かにそうだ、上の世代では結婚していないと出世が遅れる職種があったり、未婚の人を「負け犬」と嘲笑い、女性が働くのは結婚するまでで結婚して男に養ってもらい家を守り子供を育てるのが普通、男は男らしく女は女らしく、「レズホモオカマ」は笑いものにしてもいいといった風潮があったのだ。

生きていく中でこびりついた価値観は早々変わらない。だから私も「女性に酒を注がせろなんて差別です、自分でつげ」とか「今はいろんな幸せの形があるんです、私は見込んでも幸せです」と言い返したいけれど、言い返したところでどうせその人が50年、60年、それ以上に生きてきた価値観は変わらない。
もめ事になるだけだから、私はへらへら「見込んで孫の顔も見せない親不孝者のみかんちゃん」として適当に受け流しつつ、内心こう思う。
「まあどうせ、この人らもそのうち死ぬんだし」

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今は上の世代が政治やらなんやらお偉いことの実権を握っている。だから古い価値観仕様の世界になっている。でも、そんな人らも不死ではない。偉かろうが、国会議員だろうが総理大臣だろうが、もれなく人間はみな死ぬのである。
人の死を待つのはいささか不謹慎ではあるが、少数派を見てみないふりをして、たまにこちらをちらりと一瞥したかと思いきや「不幸」「かわいそう」のレッテルを貼る上の世代の分母が早く減ってほしい、と願わずにはいられない。

でも、押し出すように上の世代の分母が減ることが、果たしてそれが最善の解決策なのだろうか。今更生きていく中で培われた価値観は変えられない。けれどこういう人もいて、幸せだと認識してもらうことは出来るのではないか。

最近私は実家で「きのう何食べた?」という西島秀俊さんと内野西洋さん主演のドラマのDVDを流している。
これは西島さん演じるシロさんと内野さん演じるケンジという同棲中のゲイのカップルがふたり食卓を囲み、何気ない日常を一緒に過ごすという物語だ。
初めに言っておくが、私の家は古い価値観をドールハウスいっぱいにこれでもかというほど、詰め放題並みに詰め込んだ家である。そもそも家の周り自体がそんな感じで、「〇〇ちゃんはいい年なのに結婚もしてない、見合いでも持ってきてやろうか」と誰かが家の軒先でしゃべっている。
子供の頃不思議だったことの一つに、親戚で集まると男たちは居間で盛り上がるのに対し、女性らは日の当たらない台所でひっそりと冷や飯をかきこんでいた。私は小学校低学年までは居間にいることを許されたけれど、四年生位からは「女の子なんだから」と強制的に台所で冷や飯を咀嚼していて、それが当たり前としてはびこっていた。

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大人になって思い返すと、おかしかったことはそれ以外にもたくさんある。
初潮を迎えたころ、家族の携帯電話の写真フォルダに私の使用済みのナプキンの写真が複数枚納められていた。「どうして」と聞くか迷って聞けなかった。
でも、大人になるとその意味が分かる。孫をちゃんと産めるかどうか確認していたのだろうと。25歳を過ぎた頃から「孫を産め」「産んでさえくれればいい、あとはこっちが育てるから」などといった訳のわからないことを毎日のように言われている。
近所に住む同じ学年だったa子が父親のわからない子供を妊娠し、一時近所の噂の格好のカモだった。a子は元気な子供を産んだものの子育てに飽き、母親に子供を預け遊びまわり、母親に至っては「a子が将来結婚することになったらこの子の存在が困るから、私の子、つまりa子の弟という形にするか迷っている」と真顔で語っていて、なんともおぞましく、あまりにも赤ちゃんが可哀想な話。
なのに私の家族らは「うらやましい」「お前より偉い」とその家とa子を羨む。「なぜか」と聞くと、「お世継ぎがいるじゃないか」「お前はお世継ぎを産んでないからだめだ」という。
お世継ぎ。私、結婚や子を産むことが家を守ることや発展させる術だった戦国時代の姫かなにかだっただろうかと絶望した。でも確かに上の世代にはそんな考えが根付いている。

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そんな実家の居間で流した。「きのう何食べた?」のDVD。
はじめはあからさまに嫌そうな顔をされた。「ホモなの、このふたり?きもちわる。こんなの流さないで」と。けれども「この俳優が好きなんだ。朝ドラにも出てる人」と突っぱねた。
毎日のように流し続けた。家族らも仕方なく視聴するうちに、だんだんと嫌そうな顔はしなくなった。それどころか「この俳優、いかついのにオネエ言葉で面白い。続き借りてきてよ」と言うようになった。
俳優がオネエ言葉で面白いから、というのは不本意ではあるけれど、でも結婚をしていなくとも、子供がいなくとも幸せに生きている人の姿を、たとえドラマといえども見せられて認識させられたのは、ドラマという画面の中の出来事としてであろうと大きな進歩だ。

上の世代に伝えたいこと。
それは、幸せの形はひとつではないということ。多数派の幸せという型に当てはまらなくても幸せだということ。
例えば犬や猫といった動物ならばメスとオスとでしか結びつかないし、子孫を残すという目的でしか愛し合えない。そもそもそこに愛はあるのか、繁殖するためだけの結びつきにすぎない。
けれども人間は繁殖するためだけに結びつかない。繁殖を伴わなくとも愛をかみしめられる、これはきっと人間だけにしかできない特別なことなのだ。
だからそんな特別であることを変だと指摘するのではなく、価値観は変えられずとも認識してほしい。
そうすればきっと、今まで変わることを願っても変わらぬことを嘆いて死んでいった人らがあの世でスタンディングオーベーションする位、世界は変わるだろう。