約7年前、大学卒業とともに私は社会人になった。
平日5日勤務、土日休みのサイクル。縁もゆかりもない土地で、初めての一人暮らしが始まった。
知り合いなんてひとりもいない場所で過ごす休日は、想像以上に長く感じた。
仕事以外の予定が欲しくて、模索していた。
だんだんと社会人生活に慣れてきた私は、以前から興味のあったヨガ教室に通い始めた。

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このヨガ教室は、目的やレベルによってさまざまなコースに分かれていたが、全く何の知識もなかった私は、初心者コースの受講を決めた。

ヨガ用のウエアがあることもよく知らないまま、運動用のTシャツとスウェットで参加。
格好が浮いているという恥ずかしさとともにヨガは始まった。
呼吸を整えながら、全身を使ってゆっくりポーズをとっていく。だんだんと進めていくうちに、最初とは別の恥ずかしさが身体を覆っていた。

そう。私は身体が硬いのだ。誰にも負けないレベルで。
腕を伸ばして、床に手をつける。はずが、手が床につかない。
全身がプルプル震え始めて、よく映像で見かける優雅なヨガとは程遠いポーズをとっていた。
そんな私を見つけたヨガ講師は、発泡スチロールで出来たブロックを床と手の間に差し出してくれた。だが、そのブロックにすら私の手は届かない。さらに、もう一つ、厚みのあるブロックを重ねてくれた。
やっと、私は理想とするポーズをとることができた。
ヨガ講師の優しさは言うまでもなく伝わってきた。だが、私の心情は恥ずかしさと惨めさで「穴があったら入りたい」という言葉がぴったりだった。

一緒に受講している人の視線が気になり、自然と足が遠のいた。そして、逃げるように退会。
ヨガで「心身をリラックスさせる時間」のはずが、「悩みを実感する時間」になっていた。

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それから数年後、マンツーマンのストレッチジムに通い始めた。
他人の視線を気にして、余計なことを考えなくてすむように。
1週間に数回、きっちり1時間マンツーマンで自分の身体と向き合った。
一定期間続けて分かったことは「身体が硬い」という以前に、普通の人より骨盤の歪みと反り腰と身体の凝りがひどいという事実だった。

コロナ禍が長引く中、自宅でできるストレッチ専門の本を購入した。
その日ごとに紹介されている内容に従ってストレッチを進めることで、最終日には結果が出るという内容だ。
日にちを重ねるたびに残りのページ数が少なくなっていくことをモチベーションにして、ひたすら毎日、ストレッチメニューをこなしていった。
この本が最終日を迎えたとき、私の身体に変化は起きなかった。

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毎日の生活習慣を思い返してみる。
身体が硬くて、何か生活に支障をきたしていると感じたことはない。

ただ、こんなときは若干の悲しさが込み上げてくる。
ふとした行動の中で、身体硬すぎない?と友人に気づかれてしまう瞬間。
お風呂上がりにストレッチをしていて、家族に身体が柔らかい自慢をされる瞬間。
一緒に笑える間柄なら、構わない。

だが、身体を動かす場面に一歩踏み入れた瞬間、よりその現実を実感する。
「硬いですね」「無理しないで」。ほぼ毎回かけられるセリフ。
その言葉と同時に苦笑いされることには、慣れた。
ときには、「真面目に参加してもらえますか?」と怒られることもあった。

「継続的な習慣が大事」という言葉を信じた私は、プロの手を借りたり、自主的に生活の中にストレッチを取り入れたりした。
だが、何をしても「身体が硬い」という現実は変わらない。

これからの人生で、身体が柔らかくなる可能性はきっと低い。
振り返ってみると、学生時代からずっと抱えているコンプレックスだ。忘れた頃にひょっこり顔を出したときのダメージ具合は自分にしか分からない。
きっと、静かにずっと持っている身体のコンプレックスは誰にでもあるはず。
だからこそ、今日も全身使って朝から頑張ったよね、お疲れ様と、毎日労って過ごしていきたい。