私は、筋金入りの運動嫌い。
保育所での鬼ごっこではすぐに捕まるのが恥ずかしく、「私、鬼でいいから走らない」と開き直って友達を追いかけなかった。鬼ごっこは成立しなかった。
小学校のドッジボールでは球を避けることに専念した。スポーツを習っている男の子に「弱い奴」として真っ先に狙われた。ひたすら怖かった。しかし、ドッジボールとは本来、ボールを「受け止めきれなかったら」外野へ移動する競技らしい。趣旨に反していた。

中学では、吹奏楽部の体力づくりで走ることだけは頑張った。でも、男の子に走るフォームがおかしいと笑われて、走るのが嫌いになってしまった。思春期に異性から笑われた経験は、今も悪夢となって私を苦しめる。
高校・大学の体育は言うに及ばず。斜視のせいで(斜視は最近になって判明した)球技では遠近感が掴めず、ボールに振り回される姿を笑われた。
社会人になって体力づくりのために通い始めたピラティスは、「ガチ」でスポーツに取り組んでいる人に比べて締まりのない手脚が恥ずかしかった。そうしてコロナウイルスを「ちょうど良い」キッカケに、1年もしないうちにやめてしまった。

◎          ◎

人前での恥ずかしさから、つくづく「運動」と良い関係を築けなかった私に回ってきたツケは何か?それは基礎体力がまったくないことだ。
25歳頃までは体力なんて気にしなかった。仕事さえ出来ていれば日々の暮らしに困らない。ところがだんだんと階段が億劫になり、残業もつらくなった。三十路に近づいて、コロナウイルスが追い討ちをかけるように私から歩く機会を奪い、とうとう通勤だけでクタクタになる身体になってしまった。

久しぶりに筆をとったテーマは、身体との付き合い方について。
身体の悩みといえば、体重や手脚の長さ、顔の造形など体つきに関することが一般的らしい。私にも多少そういう気掛かりはあるけれど、誰だって悩みはあるものサ、と思うようになってから、前髪を整えまくっていたあの頃ほどには気にならなくなった。
そして、体つきに関する悩みと入れ替わるように脳内を占めるようになったのが、体力の悩み、そして体力をつけるための運動に伴う恥ずかしさなのである。

◎          ◎

体力がないなら鍛えれば良い。世はランニングブーム。ブームに乗じて近所を走れば良いと思ったが、中学の時に走り姿を笑われた思い出が脳裏によみがえった。
走ることは恥ずかしいこと。走ることを日課にしている人から見ると信じられないと思われるかもしれないが、私は絶対にやりたくないと思った。
では、何かスポーツやダンスのサークルにでも入ってみればとも考えたが、スポーツに関して良い思い出が一つもない自分が、今さら人前で楽しくプレイできる姿を全く想像できなかった。
水泳が効果的な有酸素運動だという話を聞き、プール通いに勤しんだ時期もある。ところが、中年太り解消目的で通っているらしい男性が多い中で若い女性は珍しく、ジロジロ見られている気がして居たたまれなくなった。自意識過剰と思いたかったが、続けられなかった。
ピラティスの再開も視野に入れたが、ただ教室に行って、締まりのない手脚を晒しながらきついポーズをたくさんやって、誰とも話さず帰る、という流れを月に9000円も払って繰り返すことに虚しさを感じるようになった。
かろうじてテレビ体操は続けているが、運動量としては全然足りていないのが悩みだ。

◎          ◎

こうして運動とは良い縁を築けてこなかった私だが、水泳・ピラティス・テレビ体操と、何度も距離感を模索しながら、やはり体力づくりに挑戦している。年齢を重ねるごとに衰えるらしい身体を少しでも元気に保つには、避けては通れない道なのだ。
次は、せめて部屋を片付けて、ヨガマットを敷いて、誰の目にも晒されない自室でピラティスでも筋トレでも再開しようと、栄養ドリンクを握りしめながら決意したのであった。
そしてどうか、運動が苦手な子にも気兼ねなく運動を楽しめる機会を設けて、私のような大人が生まれすぎないようになってほしいと願っている。