「自分の身体とどう付き合っていく?」――私自身が10年来、自問自答をし続けてきたテーマが目に飛び込んできた。ここでもう一度、その問いへ立ち返ってみることにする。

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私は好きな服を着る。それは、自分自身のために。だけれどその“好き”って、自分以外の誰か――第三者の視線――による“お仕着せ”じゃない?
これが、まず第一に浮かんできた素直なホンネだ。

パーソナルカラー診断や骨格診断。巷に溢れる美容整形や脱毛の広告。日々をただ懸命に生きているだけで、たくさんの視線からジャッジされているような気分。
こんな気持ちを抱くようになったのは、いつからだろう。
本当は、私は何が好きで、どんな服を着たいのだろう?
どんなスタイルで生きたいのだろう?

きっと、第三者からの視点なしに自分自身の好きを見つけることはできない。私の世界はひととの繋がりによって広がり、そしてその中から掴み取った“好き”で構成されているからだ。
だけれど、私以外の誰かが決めたうつくしさの定義にがんじがらめになっていては、自分を見失ってしまう。客観と主観のバランスはいつだって難しい。

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「自分の身体とどう付き合っていく?」という問いに対して、明快な答えは出せそうにない。だけれどたったひとつだけ、わかっていることがある。
私は、自分の身体が好きだ!と胸を張って言える人間ではない。骨格も肌の色も、体毛の濃さも顔も、いたるところにコンプレックスがある。
だけれど、コンプレックスや人に見られたくないモノを抱えながらも必死に着飾りお洒落をして、しゃんと背筋を張っている自分のことはあんまりきらいじゃない。

そして、好きな服がある人もない人もみなそれぞれに、このたったひとつの自分の身体と長い時間をかけて向き合っていくなかで、好きなところや嫌いなところを、たくさんたくさん見つけていくだろう。これまでだって、数えきれないほど見つけてきただろう。
私はどちらかというとまだ、嫌いなところの方が多い。そして今、自分の身体の好きなところをちょっとずつでも見つけていこうともがく最中で、この文章を綴っている。

私たちの身体には、内側にも外側にも、私だけにしかない、いろんな愛すべきチャームポイントがあり、そしてなかなか受け入れ難いコンプレックスもある。私はそんな自分をちょっとずつでも愛してあげるため、今日も好きな服を着た。

たとえば、服も化粧も脱毛も整形も、“自分を受け入れ、愛する”という行為の延長線上にあったらいいな、と私は思う。
昨日より今日の私が、私をちょっとだけゆるせるように。すこしだけでも、好きになってあげられるように。
そのための選択肢として、ファッションや美容がある。決して、ダイエットの広告や美容整形のCMが定義するような“正しく美しい”自分になるためではない。
なにより自分のために、私は私がなりたい自分になる。私が、私のうつくしさを定義する。
それは、いつだって自分自身にしかできないことだ。

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毎日ドレスアップして凛々しく生きるのも、ゆるりと力を抜いたらくちんな姿で日々を過ごすのも、等しくその人らしさとして受け入れ合えるような、そんな世界をつくっていけたらいいな、と思う。
ばちばちのつけまつげもナチュラルなすっぴんも、そのひとが“生きやすく”生きられたならば、それはとても素敵でうつくしいことだ。

そして、そんな自己実現へ向かってたたかう私とあなたが、どうか晴れやかな心持ちで好きな色を身に纏えますように。
心身一体。こころ晴れ、のち、身体も晴れ。
私は、私だけのこの身体を、大好きじゃない。だからこそ、これからほんのすこしずつでも“好き”を増やして、こころで身体をぎゅっとハグできるように、健やかで確固たる自分だけの”ものさし”を創ってゆきたいと思う。
私もあなたも、唯一無二。あなたのこころと身体が、あなたのなかで、どうか晴れやかでありますように。

追伸、これからもどうぞよろしくね。私のこころと、そして身体と。