「おれははやくしんでかみさまになるしあわせになる」
7歳の子どもに、その言葉を吐かせる世界にわたしは生きている。
聞いてるか日本。よく考えろよ。
この世に生を受けてたった7年の子どもが、死にたいと願う日本をわたしたちが誇れると思うなよ。
この言葉がどうか、無理やりにでも日本の背中を押すことばになりますように。

わたしが生きている間に、虐待がなくなることはないだろう

私が24時間フル稼働したとしても、この世から虐待がなくなるわけではない、という現実に、もう何百回も打ちのめされている。
そういう仕事を選んだのは自分だから覚悟はしていたけれど、そうやってすり減っていくこころに、あなたの言葉は一直線に、研いだばかりのナイフのように、何の音もなく不意打ちに。

「おれははやくしにたい。かみさまになってしあわせになりたい」
言葉にできない感情の塊の真ん中を、深く鋭く抉っていく。
どうかこの子が死ぬのが、わたしが死んだ後でありますように。
あなたが諦めた幸せを、わたしが形を変えて、渡すから。
いつか「生きていてよかった」と思ってくれるまで。

人の背中を押すことばは、悲しくて淋しいものばかりだと感じる

わたしにとっての「背中を押すことば」は、優しくもなく、温かくもなく、きれいでもなく、かわいくもない。
鋭く、重く、力強く、暗くて冷たい。
悲しくて淋しい。
わたしを強引に後ろからすごい力で押し続ける。

知ってしまったからには戻れない、見て見ぬふりなんてできない。
この子が生きている世界が、淋しくて悲しいものだけではないことを、わたしがわたしの全てで証明していく。
それがわたしの仕事であり、それがわたしのやりたいことであり、この言葉にわたしは永遠に突き動かされていくのである。

「わたしの7歳」と「あなたの7歳」の当たり前はこんなにも違う

7歳の時、木登りが好きだった。
シール帳が好きだった。
学校から帰ってきて、おやつを食べるのが好きだった。
夜寝る前に、『ミッケ!』をやってから寝るのが好きだった。
それら全ては、わたしの「当たり前」だった。

自分がいま幸せだと気づくのは、自分がいま幸せじゃないと気づくのは、わたしは一体いくつの時だっただろうか。
少なくとも7歳の時、わたしは幸せで、他の誰かが不幸せだったかなんて気にもしなかった。
ご飯があるのが当たり前で、砂だらけで気持ちが悪いという「不快」な感情も、お風呂に入ったらさっぱりして気持ちいいという「快」の感情も、なんとなく心細い時に泣いてもいいことも、嫌だなと感じた時に怒るという感情も、好きだなと思ったものを好きなだけやることも、意識しなくても、わたしは当たり前に与えられてきた。

でも、無意識に、当たり前に湧き出る感情さえも、感じさせてもらえなかった子どもは、たしかにここに生きている。
泣くことも、笑うこともなく、ただ息をするように、当たり前のように、「はやくしんでしあわせになる」という言葉を聞いて泣いたわたしを、理解ができない、というように、「おれ、おなかすいた、なんか食べてくる」と走っていった後ろ姿を見た瞬間、今度は嬉しくて涙が出てきた。

よかった、よかった、よかった。
お腹が空いたから何か食べたい、という感情が、この子に育っていて。
お腹が空いた時に何か食べられるところに、あなたを見つけることができて、本当に本当によかった。

本当は、わたしに出会わない方が、わたしの働く場所がなくなる方が、幸せな社会なのだと思う。
でもたしかに、「虐待」はこの世に存在していて、この場所があったからこそ、お腹が空いたら何かを食べたい、という感情を育てることができた。
ここからあなたの7歳を取り戻したい。

「呪いのようなことば」に背中を押されて、わたしは仕事に向かう

ここからあなたの7歳を取り戻したいとは言っても、時間は有限。24時間365日起きてはいられない。法律というカゴの中で、さらに組織というハコの中で、職場というヨロイを着て働いている。
年数を重ねるごとに、答えのない問いが増えていった。
諦めたくなることが増えた。
諦めることも増えた。
仕事だから、と割り切ることも増えた。
早く帰りたい日だってある。
ごまかすように、日々を過ごす日だってある。
でも、本当の本当にどん底まで落ちそうな時、わたしを奮い立たせてくれることばである。その度にわたしはこころの中で唱えている。

あなたは死なないし、かみさまにもならない。
そんで今世で絶対に幸せになる。

お風呂にゆっくり入れなくても、ご飯をゆっくり食べられなくても、何日も家に帰れなくても、睡眠不足が続いても、この言葉が、わたしの背中を無理やりにでも押し続けるのだ。