クラシック音楽のコンサートの帰り道だった。当時18歳の私に、70歳を過ぎた男性が語りかける。
「今のこの身体を、よく覚えておきなさい。今が1番美しいんだから」
何の話だろう、と思いつつ、特に深く考えず「そうなんですか」と答えた。
次に彼から出てきたのは、「僕と付き合ってください」という言葉だった。

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今は亡くなった私の祖父と、ちょうど同い年ほどの人だった。
当時の私は18歳。大学に入学し、急に世界が広がったように感じていた。やりたい仕事があったので、自分で営業して仕事を取るということを始めたばかりのころだった。
彼とも仕事の関係で知り合い、たまたま出身地が近かったので、可愛がってもらうようになった。孫ほども年が離れていたので、まさか自分が恋愛対象になっているとは思わなかった。
しかしどうやら彼は、私に愛を告白しているらしかった。まったく私の意に反した好意だった。

きっと、彼が愛していたのは私ではなかっただろう。
18歳の女、というウツワを愛していたのだと思う。そうでなければ「18歳の身体が1番美しい」という言葉は出てこない。
ほとんど呪いだといってもよい。極端に若さに価値を見出し、それ以外の価値を認めない。経験を積み成熟した人間よりも、ただ、若いという属性を持つことだけに価値を置く。
たとえば彼は友人に対して、そんな発想に至っていただろうか。話がおもしろいとか、知識が豊富だとか、一緒にいたいと思う人間にはそういうことを期待するはずだ。だがそのとき、彼が求めていたのは18歳という記号だった。それは私に対して非常に失礼なことである気がした。
しかし彼は大真面目に、それを愛だと信じて、私に語りかけている。空虚だった。
これは愛だろうか。本当に愛していたら、何歳でどんな身体であっても、愛おしく思うのではないだろうか。それともそう思うのは、私が若かったからだろうか。

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幸いにも、その後私は「18歳の身体が1番美しい」の呪いにはかからなかった。とはいえしばらくは鏡で自分の姿を眺め、「これが1番美しいとされているのか」と他人事のように考えた。
人によっては、ここで呪いにかかってしまうこともあるだろう。これは厄介な呪いだ。人は必ず歳を取る。抗いようのないことに恐怖を感じながら生きていくには、人生は長すぎる。


私が偶然呪いにかかることがなかったのは、環境の要因が大きかった。
周りのだれも、私を年齢という記号だけで判断していなかった。愛し愛されるために必要なものは、記号よりもっと有機的な、その人の魅力や欠点を理解することだと知っている人ばかりだった。それは、呪いを跳ね返すのに十分なまじないとなって私を守ってくれていた。

若さという価値基準が存在すること自体は、ある意味では当然だと思う。私も「こんなに若いのにすごい」と思うことや「若くてかわいい」と思うことはある。
ただ、それ以外の尺度を知らないのは文明的ではない。機知に富むこと、行動力に優れること、思考力に秀でていること。人は様々な要素から構成されていて、その分多様な価値基準があるはずだ。
記号しか見ようとしない姿勢は単なる怠惰である。なのになぜか、その怠惰が許され、むしろ、その怠惰こそが正義であるかのようにふるまう人が、一定数存在している。
18歳の私の身体への空虚な愛の言葉は、そんな客体化の表出だった。きっと彼は、そのことをまだ理解していない。もう70年以上も生きているのに、どうして誰からも教えてもらえなかったのだろう。彼が私にくれた愛の言葉よりも、何かもっと空虚なものを、感じずにはいられない。

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情報社会の今、私たちを取り囲む情報の中には、そういう類のものもたっぷりと含まれている。私たちは意志として幸福になれるほうを選択しなくてはならない。価値観は選べる。どのような価値観の人と過ごすのかは、自分の意志で選ぶことができるのだ。
若さを信仰する教徒もいれば、そうでない人もいる。信じるものが違えば、距離を置けばよい。無理してほかの宗派を信仰する必要はないのだ。
自分で自分を呪うような経典を信じるのはやめにしよう。社会の構成員の1人として、戦線に立つ1人として、すでに私たちは存在しているのだから。