これは数年前のこと。
「あんなに仲良かったのに?」
「結婚するんだと思ってた!」
3年近く付き合った彼と別れたと話すと、多くの友人が驚いていた。
私も彼女たちのように思っていた。
◎ ◎
元彼は御曹司で、国立大学に通っていたのにある日突然、「俺、やっぱり料理の道に進みたい」と、私には事後報告で国立大学を中退し、いつの間にか料理の専門学校に入学していたことがあるような、予測不可能な人だった。
しかも、そんな予測不可能を叶えてしまうご両親は、九州の田舎から月に1回、横浜に遊びに来られる財力と時間をお持ちだったので、19の時に父を亡くした私は彼の後ろ盾に嫉妬することさえあった。
そんな彼は精神的に大人な面も持ち合わせており、父を亡くして自暴自棄になっていた私を精神的に支えてくれていた。
料理の専門学校に通う前から料理上手だった彼。
料理が趣味の私と気が合い、毎年クリスマスは2人で手分けして料理を3〜4品作った。
私が美容部員の仕事で帰りが遅い時や、体調を崩して寝込んでいるときは、言わずとも美味しいご飯を作ってくれた。
そんな彼は「いつか親になった時、子どもが何歳になったらゲームを買い与える?」とか、「こないだ友達の子どものベビーカーを押させてもらったんだけど、いつか父親になった時の予行練習になったわ!」とか、私にとっては“結婚”を連想させる発言をよくしていた。そのため、私は「いつかこの人と結婚するのかな」とぼんやりと思っていた。
ところが、私は美容部員生活で心身共に疲労困ぱいし、適応障害になってしまった。
◎ ◎
コロナ禍の休職は、本社の総務部が人数を減らして出勤している関係で、送った書類が確認されるタイミングがかなり遅く、傷病手当金がコンスタントに振り込まれないことがしばしばあった。
そんな時、彼は「そういう時は俺を頼ってよ? 彼氏なんだから」と、半同棲状態だったこともあり、快く自炊に使う食費を負担してくれることもあった。
休職期間が長引くにつれて、私は「彼にとってこんな“出来損ないの彼女”である私と居るメリットはあるのか」と、疑問を抱くようになっていた。
それと共に、「定期的に横浜に遊びに来る彼のご両親に一度も会わせてもらったことがないのは、彼も私のことを引け目に感じているのではないか」と、あらゆる疑念が浮かんだまま月日が過ぎた。
彼が料理の専門学校を卒業し、イタリアンのシェフ見習いになって1か月経った、とある小雨が降る日。
彼の好みに合わせて肩甲骨まで伸ばしていたロングヘアを15センチもバッサリと切り、私はボブヘアにした。
美容室帰りの私を迎えた彼は意外にも反応がよく、「似合ってるじゃん」と言いながら照れ笑いをしていた。
疑念さえなければ素直に嬉しかったのに、この時、彼の照れ笑いを喜べなかったのだ。
◎ ◎
それから数日後、彼の仕事帰りを待ちながら、リクエストに応えて、夜ご飯にチンジャオロースを作っていた。
ピーマンを細切りにするたびに「彼も私のことを引け目に感じているのではないか」という疑念が再び頭の中でうごめく。
それを断ち切りたいかのように、私はピーマンの細切りを切り進めた。
その日はどうにか平然を装えたが、次の日には思い切って彼に別れを告げた。
「別れたいなって、思いよったっちゃんね」
そう切り出した私に、彼は「俺も」と返してきた。
彼には引き留めてほしいと心のどこかで思っていたからか、私は気付けば涙が溢れて止まらなかった。
すると、なぜか彼まで泣き出したのだ。
「俺だって別れたくないよ? 別れたくないけど……」
そう声を詰まらせたが、その続きを一切彼は言わなかった。
言わなくても彼がぐっと飲み込んだ言葉が痛いくらいに伝わってきた。
◎ ◎
きっと互いを思って別れを選んだ私たち。
半同棲していた彼の家から大荷物を運ぶ私は、淡々としているように見せかけた。
お揃いのアクセサリーは「買ってくれたけん、返す!私が処分するのはなんか違うと思うけん」と言い、わざと困らせるように突き返した。
彼のイニシャルが“M”だったことをいいことに、自宅に着くなり、プリンセスプリンセスの『M』を聴きながらベタに大号泣した。
しかし、「鉄は熱いうちに打て」ということわざがあるからと、ひとしきり大号泣したのちに本当の意味での終止符を打つべく、アドレス帳からもLINEからも彼を消した。
あれから2年経った。
仕事で品川を通るたびに、彼が入社後すぐに配属された高級イタリアンのお店が目についてしまう。
「元気にしとーかな?」と思い、背伸びしてお店を覗きたい気持ちを抑えながら、そそくさと改札に向かい、山手線に駆け込んでいく。