スポーツは何のためにあるの?というと、その答えは実に多様である。
楽しむため、勝つため、見ている人を楽しませるため……。その多様な選択肢の中には正解も不正解もない。つまり、どの意見も平等に正しいのである。
しかし、私は大前提として、スポーツは人を幸せにするためにあるべきだと思っている。なぜなら、望まない活動は人を不幸にすることを、選手と研究者という二方の立場から学んだからである。

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私は研究テーマとして部活動を選択するまで、スポーツとは、勝利至上主義の下に成り立つものだとばかり思っていた。もちろんサークルとして週に何度かそのスポーツを楽しんでいる人もいるが、それは単なるお遊びで、大会に出て勝利を目指すものこそが真のスポーツだと思っていた。私やその周囲の人たちは、その思考に陥っていたがゆえに不幸となった。

私は中学生の時に卓球をやっていた。そのやる気度は学年や性別によって格差が激しく、女子部員に限って言えば私たちの代は本気で活動する人がいなかった。一方、一つ上の代はやる気に満ちており、休養日すらろくに休まないほど練習に打ち込んでいた。
顧問教師の態度からは、明らかに私たちよりも先輩方の方がかわいいのが目に見え、それを感じ取っては良くも悪くもお互いのリアクションを利用し、何かと理由をつけては練習を休んだり大会への参加を拒んだりしていた。

顧問教師はとてもやる気のある人で、一ヶ月に二度しかない休養日を使っては卓球の講習を受けに行き、生徒へ行う球出しの練習や強いチームを率いる先生方とのコネ作りに励み、卓球界で出世をしていった。
そんな先生の口グセは、「なんのために練習しているんだ?勝つために練習しているんだよなー」だった。
私たちは反発できずにうなずくが、顧問と同様の心を持っていた人はいなかった。引退の日、他の部の生徒は涙を流していた者もいたが、私たちは何も残さずあっさりとその場を去った。やる気のないものを、言われるがままにやり続ける。この経験は私にとって負の代償となった。

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その後、部活動のあり方に疑問を感じていた私は大学院で部活動の研究を行い、一つの公立中学校の創立時から現在までの三十年間の歴史的変遷を追った。
そこからは、少子化により全員加入制を採ったまま文化部から廃部が行われ、やる気のない生徒が活動時間の長い運動部を選択せざるを得なくなったこと、顧問教師もやる気のある生徒とない生徒の二方を指導する必要が出てきたことが分かった。つまり、やる気のない生徒に活動を強制することは、生徒にとっても教師にとっても負担となることが分かった。
中学生の時に感じていたもやもやを十年以上の時を経て解決し、新たな解明をすることによって社会に貢献できたことを清々しく思っている。

では、これらの問題を解決するにはどうしたらよいだろうか。
私は、本人に練習や参加意志の決定権を委ねるべきだと思っている。スポーツが人を幸せにするには、大前提として何らかの強制ごとがあってはならない。毎日沢山練習をして大会で勝ち進むことを幸せを感じる人もいれば、週に何度かレクリエーションとして活動することに幸せを覚える人もいる。
私たちの場合も後者ならば幸せに活動することができたかもしれないが、レクリエーション=ふざけという空気の中で実現することはなかった。

スポーツのあり方と多様性を認める。日本のスポーツは、そこに意識が向けられることが少なかったように感じる。これからはスポーツが、個々人の意欲に合わせて自由に活動できるものとして認識されるようになっていけばいいなと思っている。
選手と研究者という二方の立場から、これからのスポーツのあり方について考えていきたい。