創造力が豊かな子供だった私にとって、スポーツは「恐怖」だった。
ボールが飛んできて自分に当たったら?跳び箱から落ちたら?きっと痛いに決まっている。
息の出来ない水の中で溺れたら?苦しいだろうし、死んでしまうかもしれない。
このゲームで負けたら?きっと恥ずかしい思いをするだろう。
リレーで私のせいで抜かれてビリになったら?誰かに責められるかもしれない。

そうやって自分の身体を動かす前に、失敗したその先を考えて怖くなってしまう。
成功したら、何が手に入るのか?その割には失敗した時のリスクが大きくないか?
そんな風に、スポーツをすることの良さも楽しさも全く考えられなかった。
今思えば、幼少期から私には「人に勝ちたい」「勝ち負けをはっきりさせたい」という気持ちが全く無かったのだ。
そんな私はスポーツ嫌いのまま、どんどん成長していった。

◎          ◎

高校生3年生の頃。進路が固まりはじめる人も多い中で、普通科にも関わらずいくつかの科目は受けなくてもいいようになった。
文系の人は文系のみ選択すれば良いし、理系も同じ。英語は必須だったけれど、ライティングだの英語探求だの、カテゴリーが分かれてより専門的になった。音楽や美術、家庭科もやりたい人だけ受ければよし。
そんな中、体育は必須科目だった。そのことにとてもうんざりしていたことを覚えている。

「やりたくない」。その理由一つで音楽や美術、家庭科は受けなくても良いのに、なぜ体育は受けなければいけないのだろう。
運動しないと死ぬの?運動することが苦手で、「私には必要無い」という気持ちにもお構いなしなの?
多様化とか言いながら、スポーツはしなきゃいけないの?絵は描けなくてもいいのに?
そんな風に思ってしまう自分が、ずっと嫌だった。
嫌だろうと嫌じゃなかろうと、体育は受けないといけないし。
体育だけを楽しみにしている友人もいた。「座って授業を聞いているだけよりも、身体を動かす方がよっぽどマシ」と言う友人もいた。
そんな友人たちに、なんとなく話を合わせる事しか出来なかった。
「体育なんて無くてもいいのに」って心の底で思いながら。

◎          ◎

文系は普通、理系は苦手、音楽美術は花丸、体育は出来ない上に意欲も無し。そんな成績で高校を卒業した私は、洋服のデザイナーになると決めて専門学校に入学した。
国語も算数も英語も体育も無い。ミシンを使って、絵を描いて、生地や糸について学ぶ、高校生の時には考えられなかった学校生活の中で、私の成績はオールAに近かった。
専門学生になった私は、ようやく自分の生きる場所を見つけたと思った。

大人になってから好きなことを仕事にして、とても心が豊かになった。創造力はスポーツを怖がるためにあるわけじゃなくて、表現するためにあるのだった。
「スポーツが怖い」と感じていた子供の頃の自分は何も間違っていなくて、ただ素直で正直だった。“好きなことだけを選べば良い”“自由であればあるほど楽しい”と思う大人になったから、当時のことをそんな風に思う。

◎          ◎

座りっぱなしの毎日を過ごしていると自然に身体を動かしたくなって、家でYouTubeを見てストレッチやヨガをするようになった。スポーツをやりたくなかったわけじゃなくて、勝ち負けが嫌で怖い思いもしたくないだけだった。
そうやって自分の本音に気付く度に、「もっと選択肢の多い世界」だったなら……と心から思う。体育の授業を受ける選択、受けない選択。文系が文系だけを、理系が理系だけを選べるのと同じように、得意な音楽や美術だけを選ぶ選択。そんな世界だったら、昔の私はもう少し楽に生きれただろうに。

将来産むかもしれない自分の子供が私と同じように「スポーツが怖い」と思っていたら。間違っても昔の私のような思いはさせたくない。
“好きなことを選ぶことが1番素晴らしくて、嫌なことはしなくて良い”そんな世界になっていてほしいし、そんな世界に導いてあげる親でいたいと思う。