運動が嫌いだ。走るのも投げるのも蹴るのも、生まれてからこのかた、ずっと嫌いだった。体育の時間は本当に嫌で、何度も仮病を使って見学をした。

◎          ◎

そもそも足が遅くて運動会では毎回ビリだし(なんで音楽の大会はないのに運動の大会はあるのだろうか。運動ばかりそうやって全員で順位を出すのだから大嫌いだ)、ボールを投げては明後日の方向に飛んでいく。
中学のバスケの授業は地獄だった。パスすらまともにできないからである。蹴るのなんて論外だ。小学校のサッカーの授業では、ボールが飛んでくるのが怖くて手を前に出すものだから、毎回ハンドを食らっていた。顔に向かって飛んでくるものをどうすればいいというのだ。ぶつかって鼻血を出せというのか。

スポーツ嫌いの私は、もちろん出不精になった。スポーツだけならず、動くことに関する友人の誘いはすべてNOで答えている。
そんなある日、同僚にボルダリングに誘われた。体力もなく、体も硬い私には絶対無理だと断ったが、いいから行こう、とほぼ押し切られる形でボルダリングジムに行った。無様に落ちて苦笑を得る姿が目に浮かんだ。

◎          ◎

結論から言うと、ものすごく楽しかった。
もちろん上手く登れず何度も落ちる。だけど楽しいのだ。
「すだれ、いい感じ!そう次は右側のホールド!」
と同僚は応援してくれるし、登頂出来れば「ナイス!」と声をかけてくれる。
何より嬉しかったのは、私がうまく登れなくても、一切笑われないのだ。同僚も、ジムにいる他の人も。
「あそこで左足を一回、左のホールドに置くと、次は行けるかも」
とアドバイスをしてくれる人や、
「さっきより良い感じになってたよ!」
と褒めてくれる人。
とにかく、皆優しいのだ。
「みっともなく落ちたのに、なんで笑わないんですか」
と、思わず言葉を漏らすと、
「なんで笑うの?」
同僚は真剣な目をして、そう返した。
「ダサいとか思われるかなって」
「頑張ってるのに? そんなのありえないよ」
その言葉を聞いて、分かったのだ。
私はスポーツが嫌いなのではなくて、失敗したときに笑われたり、からかわれたりすることが嫌だったのだと。

◎          ◎

思い返せば、徒競走でビリになればクラスメイトに「おそーい」とからかわれた。バスケでパスを失敗すれば、大げさにため息をつかれた。サッカーでハンドをすれば、「ダッサ」と鼻で笑われた。
私は頑張っていたのだ。徒競走では遅いなりに全力で走っていたし、バスケのパスだって変な方向に投げたくなんてなかった。サッカーだって、本当は顔を隠したくなんてなかった。だから、その行為に対する嘲りに傷ついていたのだ。
ボルダリングの帰り、
「どうだった? 楽しかった?」
と聞く同僚に、
「また行きたい!」
と答えた。もっと上手くなりたいと思ったし、ここでなら安心して続けられると思った。

スポーツが嫌いだから、と逃げ続けた私の今までの時間は、私の可能性を潰し続けた時間なのだと思う。しかし、体の動かし方を知らない子供に、元々持つポテンシャルでなんとかさせようとする体育の形が変わらない限り、私のような被害者は減らないのだろう。
体の動かし方を教え、勝ち負けではなく楽しさを伝える形の体育になればいいな、と切に思う。