「おっ、今日も山登り?」
朝、会社に着くや否や隣の席の先輩がそう茶化してくる日は、私が「ジムに」行く日だ。
ジムウェア、タオル、シューズを入れた大きなリュックをデスクの横に置いて、パソコンを開く。
「結構続くタイプなんじゃね。どれくらい行きよん?」
「うーん、そうかもしれません。土日も行ってるから週4か3くらい?」
「うーわ、モデルじゃん。元々スポーツしとったんだっけ?」

いいえ。絶対にしていません。
運動神経が壊滅的な私が、しているわけがない。

◎          ◎

「ああ、体育なんて大っ嫌いだ!!」
10代の頃、私は幾度となく心の中でそう叫んだ。
ペーパーテストでクラス最高点を取ろうと、通知表の体育の欄にはいつも5段階中3の数字しか出てこなかったし、体育祭やクラス対抗バレーボール大会は全く活躍しないならまだいいものの、チームの足を引っ張るのでなんだか爆弾扱いを受ける。
練習をして上達はするものの、あくまで比較対象は「以前の私」に過ぎず、壊滅的な運動神経の私の域を超えない上達は評価をされない。

しかし、私は体育が苦手科目であると同時に、美術が得意科目だった。そのため、努力ではどうすることもできない向き不向きがあり、それが実技科目として成績が付けられることへのもやもやはなかった。甘んじて受け入れます。そんな感じだ。
もちろん体育のことは大っ嫌いですけど。
ただ、「体育」に関して納得のいっていない点がある。積年の恨みをここで少し晴らさせてもらう。

◎          ◎

それは、体育があまりにも校内の人間関係に影響を与え過ぎていることである。
「体育」が存在した小・中・高と、クラスの中心にいたのは、体育の得意な男女であった。体育のできる男女は同じく体育のできる友達、彼氏や彼女を作り、明るく楽しく過ごしていた。体育の授業は勿論、体育祭やクラス対抗バレーボール大会では一段と盛り上がりを見せていた。

一方、体育の苦手な私は、同じく体育の苦手な友達とクラスの端っこで過ごし、体育の授業等がある度に憂鬱な気持ちになる。
球技など団体競技ではなるべく迷惑をかけぬよう意識をしていたら、「消極的で大人しい子」というイメージがついた。体育を通じて友情が芽生えている光景を横目で見ながら、私は大人しくなっていた。時に、「何でもっと頑張れないの?」という反感の目で見られることもあった。

そんな調子だから、当時の私に体育のできる友達はほとんどいなかった(性格や相性の問題もあるだろうが……)。

大学入学後も必修科目として「体育」はあった。
しかし、それは今までの体育とは違い、体育が嫌いな子を減らすためにどうすればいいかを考えながらスポーツをしよう、というものだった。
勝ち負けや、技のできるできないで評価をするのではなく、どれだけ楽しめるかが重視された。

私は高校までの体育の授業が間違っているとは思わない。そういった評価や勝ち負けというプレッシャーがあるからこそ、多くの人は上達をし、成長をしていくのだ。
また、私のような運動神経が悪い人でなければ、スポーツの楽しさを感じることもできるだろう。
大学で受けた体育の授業を通して、私は初めてスポーツの楽しさを知った。
下手ながらもラリーが続くようになってきた喜び、綺麗なサーブが打てたときの爽快感。
ミスのほうが多くても、得失点も勝ち負けもないので気にならなかった。

◎          ◎

私はにっこり笑って答える。
「スポーツは苦手なので、なんにも。ただ筋力がついたり体が引き締まったりしてきているのが実感できて、ジムは楽しいです」

会社のみんなには不思議がられるだろうが、ここだけの話、私はアラフォーの上司達とする草野球も好きだ。
2次会、3次会で酔っ払いながらするダーツやボーリングも好きだ。
どれもグダグダで目も当てられないカオスなゲームだが、勝ち負けは関係なくみんなとにかく笑っていて、ファインプレーがあれば大袈裟なくらい褒め称える。
翌日は筋肉痛の苦しみを共有してまたみんなで笑う。

最近はお遊びフットサルも始めた。
さすがに勝ち負けはあるが、ゆるい雰囲気でできて楽しい。

私は体育が大っ嫌いだ。
しかし、スポーツ自体が大っ嫌いなわけではないのかもしれない。