趣味に充てる時間において、一番の妨害者は自分自身のような気がする。
私は映画が好きだ。昔からテレビのチャンネルを1から12まで行ったり来たりポチポチいじるよりは、ビデオデッキの線を繋いでアニメ映画を観る子どもだった。
母親が忙しい人だったせいか、あまり映画を観るという習慣がなく、我が家のムービーコレクションはあまり多くはない。デッキ下は寂しいものだったけれど、幼い私はそれらを愛していた。

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一番のお気に入りは、言わずと知れたジブリの名作「千と千尋の神隠し」。
油屋で働き始めた千が、先輩であるリンに叱られながら雑巾を絞るシーン。あの雑巾からボタボタと滴り落ちる水の描写が好きだった。
クライマックスでハクが龍の姿になって、銭婆の家まで千を迎えに来るシーンも好きだった。千が白龍の背に乗って空を飛ぶ、あの代表的なシチュエーションに憧れて、当時飼っていた柴犬の上に乗ろうとしたが、6歳児が乗るには犬がすこし小さ過ぎた。

私が1人でも静かに2時間座っていられるようになり、暗闇や大きな音にも泣かずにいられるようになると、映画館に連れて行ってもらえるようになった。
私はそこで生まれて初めて味わう感動に心を震わせた。
私は映画を観るということは、自分が生きている間にできない経験を買うことだと思っている。映画館に着いた瞬間からそれはもう始まっている。
映画館に近づくにつれ、香ってくるポップコーンの甘い匂い。
座り心地のいいフカフカの椅子。
照明が消されて、シンと暗くなる瞬間。
家でくつろぎながらスマートフォンの小さな画面とイヤフォンで観るのもいいが、やはり迫力のある音や大画面がある映画館でしか味わえない感動というものがある。特に初めての感動というのは、何物にも代えがたいものだ。

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映画館でも、家でも、映画に没頭している2時間の間だけは、私は自分が観客であることも忘れられる。
キャラクターに感情移入して共に笑い、戦い、怒り、涙を流せば、私もストーリーに、スクリーンの中へ入り込んだかのように錯覚する。
観客のように無視される存在ではなく、誰かの人生において私も、秘密を打ち明けてもらえるような親しい友であり、愛し愛される人であり、または時に意見をぶつけあいながら共にその命つき果てるまでしのぎを削り合う、たった1人のライバルでもあると思えるのだ。

常識が通用しない異世界に迷い込んでしまった10歳の女の子。
親の仇を討つために勇敢に戦った魔法使いの少年。
無実の罪で終身刑になっても希望を捨てなかった元銀行員。
幼い子どもは自分も物語の主人公のようになりたいと願うかもしれない、勇者や冒険家やお姫さまなど。
だが大人になってふと周りを見渡すと、自分が孤独であることを知る。

昔の友達はそれぞれの人生を歩んでいて、自分も自分の人生を歩んできた。仕事をしたり、家庭を持ったり、自分の好きなことをしたり、なんとなく生きてきて、ある日観たかった映画を観て感動し、余韻に浸って夢見心地で家に帰ったあとで、こう気がつくのだ。
自分には親友と呼べる友もいないし、絵に描いたような幸せな家族でもない、自分自身もそうなれなかったと虚しくなるかもしれない。

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映画を観るというのは、とても疲れることだ。
人との違いや自分の人生がいかにつまらないものかを、まざまざと見せつけられるかもしれない。シリアスな話を観たあとには落ち込んで、2、3日余韻を引きずってしまうし、ファンタジーを観たあとには何日も頭がぼうっとして夢見心地のまま、仕事も手につかなくなる。
それに忙しい日々の中で120分という隙間時間を捻出するのはなかなか大変。

なにか心配事があったり、イライラしたり、体調が悪い日には映画なんか観ていないで素直に寝るべきだ。映画は楽しい時間をより楽しくするもので、必ずしも疲れを癒してくれるものではないことが多いから。
そして、誰にも邪魔されず、ただ映画の世界に没頭したい時にまずするべきことは、精神と体調を整えるべく睡眠不足を解消することだ。