2022年7月8日16時55分現在、私はひとり、東京へ向かう東海道・山陽新幹線のぞみ号に揺られている。記憶の鮮度が高いうちに残しておかねばという衝動に駆られ、この文章を書き始めた。

昨日7月7日の午前0時過ぎ、父方の祖父が他界した。
実はその前の6月27日に、危篤で来週までもたないだろうとの電話が父からあった。コロナ禍ということもあって面会はできないため、訃報が入って葬儀の日程が決まってから、両親と私で山口県岩国市にある父の実家へ向かう予定で考えているとのことだった。
私は7月から転職で新しい会社に入社するという個人的なイベントも控えていたので、精神的に落ち着かない一週間を過ごし、とりあえず不幸な連絡が来なかったことに安堵していた。

そして七夕を迎えた深夜、遂にその覚悟していた出来事が起こった。今度は母からの電話だった。
「おじいちゃん、亡くなったんだって」
長くないとは聞いていたし、その時はただ、「その時が来てしまったんだな」としか思わなかった。埼玉県で生まれ育った私は、年に一度のお盆休みしか顔を合わせることはなかったが、毎年行くたびに弱っていっているのも一目瞭然だった。
東京駅で両親と合流し、10時台の新幹線で向かった。ちなみに、これまで身内の死というものに向き合った経験は、17年間飼っていた愛犬が永眠したとき(息を引き取る瞬間を見届けたので非常に辛かった)のみで、二親等以内の親族を失うのは、私にとって初めてのことだった。

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家族葬で、斎場には身内の10人ほどしかいなかった。「まだ顔を見ていないでしょう」と促され、棺桶のガラス越しに、眠っている祖父の顔を覗き込んだ。
夏休みに遊びに行っても寝室は別だったし、寝顔なんてまじまじと見たことがなかったので、こんな顔をしていたような、そうでもないような、正直どう感じていいのかわからない気持ちになった。遺影のほうが知っている祖父の顔で、それでも9年も前の写真だったそうなので、悲しみというよりは自分の中の時間感覚を疑った。
通夜は滞りなく行われ、その日は棺桶と同じ和室で夜を明かした。

翌日、告別式の花入れの儀のタイミングで、遮るもののない状態で、眠る祖父の顔を初めて見た。突然、堪らない感情が溢れ出てきた。
そうだ、これが、この姿が、現実なのだ。父や祖母が泣いていない以上(いや、本当は二人も堪えていただけなのかもしれないが)、私がわんわん涙を流すわけにもいかず、必死に耐えた。マスクで隠れた部分は誰にも見せられない惨状になっていた。

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誰かが亡くなった時に、「実感が湧かない。明日また普通に会えそうな気がする」という表現をよく見かけるが、言わばその正反対の感覚が押し寄せてきた。
「もう戻ってこないんだ」
「本当に終わってしまったんだ」
祖父は晩年、私のことを覚えてくれていなかった。認知症も酷く、祖母も手を焼いていたらしい。頑固で施設にも入りたがらず、老老介護となってしまっている状態を、父も心配していた。
これ以上長く生きていても、昔と同じように接することはできない。わかっていたのに、私の目に映った祖父の姿はその時、喪失感の権化となって心に重くのしかかった。

火葬を待つ中、安倍晋三元首相に関する痛ましい事件のニュースがあった。そこで初めて、祖父以外の話題で親族同士がザワついた。
こうやって世間の様々な出来事が、今の悲しみを過去のものにしていくのだろう。そんなことを思って、ボロ泣きしながらどこか冷静でいる自分の残酷さに気づかされたりもした。火葬場の空調が、ポニーテールをした首元にやたら涼しく感じられたのを覚えている。

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生前痩せ細っているように見えた祖父の遺骨は意外にもしっかりとしていて、斎場の方に促されながら私は骨盤の骨を骨壷へ移した。
考えてみれば、「来週までもたない」と判断されながら、翌週まで持ちこたえた人だ。酒もギャンブルもやらないほど生真面目でもあったらしい。心臓を患っていたにも関わらず、死神にろうそくの火を消すことをなかなか許さなかったあたりが、最後まで頑固親父そのものだった。

軒下にできた蜂の巣、鉢植えのヒメリンゴ、庭の池の鯉、ゲートボールのゴール。思えば、まだ元気だった頃、年に一度しか遊びに来れない私に、祖父はいろいろなものを見せてくれた。畑いじりが好きで、荒らしてくるイノシシとの戦いであることを教えてくれた。茄子だったり栗だったり、季節ごとの野菜を送ってきてくれた。

話は変わるが、私はベイスターズファンである父の影響で、5歳の頃から毎年、両親と横浜スタジアム(※ベイスターズの本拠地)に試合を見に行っている。
子どもの頃の私は運動が苦手で、野球のルールも知らなかった。それでも今では年に何度も球場に足を運び、選手たちの活躍に度々勇気づけられている。野球繋がりで仲良くなった人たちもいるし、本当にいい趣味を持ったと思う。

祖父の影響で、父もプロ野球を応援しはじめたと聞いている。祖父にとって地元球団であった大洋ホエールズ(当時の本拠地は山口県)が現在の横浜DeNAベイスターズであり、つまり私は祖父の代から続くベイスターズファン三代目ということになる。
大袈裟な言い方だが、祖父がホエールズを応援していなければ生まれなかったであろう人間関係が、私の周りには少なからずある。

夏休みの数日間しか会えないこともあって、悲しいことに晩年は私のことを認識してくれてはいなかった。しかし一方で、今思えば確実に、私の中に沢山のことを残してくれていたのだ。

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両親は役所の手続き等のため、まだ暫くは祖母の所へ居るつもりだそうだ。予定がある私だけ一足先に帰ることになり、今に至る。
新幹線の中で祖父のことを思い出し、また視界が霞む。涙が引かないまま、気分転換に電子マネーで硬いアイスを買う。車内販売のお姉さんにはどう思われただろうか。

なにはともあれ、私自身の人生はまだこの先長い。祖父が私にしてくれたように、私もまた、何かを残せる人間で在りたいと思う。とはいえ祖父の3分の1も生きていない若輩者の私は、残す物も伝える相手も今はまだない。なので、ひとまずそんな祖父のことを、ここに書き記しておく。