「わか、ほら見てみなよ!こんなにたくさんいるんだよ!」
夏なのに少し涼しい山の辺りに、いくつもの光が輝いている。生まれて初めて生で見た蛍だった。

◎          ◎

わかに見せたかったんだと無邪気に笑う彼。暗くて表情は見えないが嬉しそうだった。水辺で足場が悪いのに蛍を追いかけ回っている彼。危ないよと言っても聞かない。見ているこっちがヒヤヒヤした。いつも、わかは転びそうで危なっかしいと言うが、私からしてみれば、足場も視界も悪いこんなところで蛍を追いかけていることの方がずっと危ないと思った。
「わかわか!手ぇ出して!早く早く」
そう言われて手を出すとフワッとやさしい光が灯る。手のひらに1匹の蛍がいた。不規則に光る蛍で彼の笑顔が見え隠れする。思わず私も笑みが溢れる。子どもみたいと思いつつ、胸がジーンと熱くなる。
ひとしきり蛍のいる景色を堪能して家まで送ってもらった。すると自宅のドアの前でフワッと光る蛍が1匹。車にとまっていた蛍が1匹いたようだ。名残惜しそうに2人で見つめた最後の1匹の蛍。
「また見にこような」小さな声で彼が言った。
でも、それ以降2人で蛍を見に来ることはなかった。
別れたからだ。お互い嫌いだったわけではない。でも、学生だった私は社会人になり、物理的にも心理的にも距離が離れていってしまったのだった。

◎          ◎

あれから10年。
久々に買い物しようと連絡をもらって会った。今ではもう元彼。
出会った頃よりも、別れた頃よりもずっと痩せていて、子どもっぽさもなくなり、落ち着いた大人になっていた。

元彼と買い物をしている間は特になんとも感情が揺れ動くことはなかった。やはり、別れた相手だから、一緒にいても友達感覚だった。隣を歩いても話をしていても、ドキドキしない。気楽な感じだった。そうか、やっぱり元彼だから、過去の人なんだなと、もう終わった事なんだなと感じた。彼も私に対して近すぎず離れすぎずの感じで隣を歩き、私に触れたり愛の言葉をかけたりすることはなかった。そういうものだ。そういうものというか、それが当然のことだ。むしろ、こんな形で会ったことの方が異常かもしれないとさえ思った。
そして別れの時、わずか3時間程度の買い物の帰り道。ミニたい焼きを頬張りながら他愛もない話をした。
そして、私は元彼の車からおり、ありがとうと一言言うと、彼がそっと私の頭を撫でた。この日初めて私に触れた。
「ほんっと……わかはかわいいなぁ」
噛み締めるようにゆっくりと呟く彼の声を聞き逃すはずがなかった。マスクをしていてもわかる。目尻が下がった目とマスクの奥の微笑み。ほんの一瞬だったのに、それだけで心が揺れた。

◎          ◎

「ちょっと、髪ボサボサになるって」
照れていることを隠しながらうつむいた私。いそいそと照れ隠ししながら車のドアをそっとしめた。そして元彼の車は走り去っていった。ハザードランプを5回チカチカさせて。「あいしてる」のサイン。
切なかった。もう終わった相手だってわかっているし、買い物している間も、もう友達なんだなって思った。なのに漏れ出た「かわいい」と、頭を撫でた行為は、今でも私のことを大切にしているという証だと感じた。

それから数日後、彼からメッセージが届いた。
「今日ね、21時まで仕事してたんだけど、帰りに蛍が飛んでたんだ。自然豊かなとこはまだまだ蛍見れるんだね。懐かしい。覚えてる?あの時に戻れたらなって思う。またいつか思い出せたら、この話の続きをしよう。なんてね」

覚えているに決まってる。懐かしいって私も思った。お互い別の道を歩んでいるけど、私も話したいなって思った。
でも元彼は知っている。私に新しい彼氏がいること。だから大人になった元彼は「なんてね」って誤魔化している。
愛されてるんだなぁ。私って幸せ者だな、でもなんとも切ない夏の思い出。
今年の夏もあの時のように心に刻まれる夏になるかもしれない。