現在29歳独身女性、華やかな20代卒業を目の前に、日々やり残したことはないかと、やりたいことをタスクのようにこなして生きる日々。どこの誰が見ても、きっと「ぶれない自分らしさ」がある私は、楽しそうに輝いて見えているであろう。そんな自信がある。
コロナ禍の中でも、行きたいところに行って、会いたい人に会って旅をしたり、日々したいことをして、ほしいものを手に入れて、楽しんでいる。こんなに強く逞しく今を歩けているのは、私の憧れである、ある人のおかげだ。
そう。働き者で、みんなに笑顔で、人に愛されて、年を重ねても好奇心旺盛な私のおばあちゃん。
おばあちゃんは、私が当時27歳の夏、約5年間の癌闘病生活を終えて、この世を旅立った。この世を去る一瞬まで、おばあちゃんは強く、美しく輝いていた。
死はおそらく、暗闇であり、哀しみであり、尊いものだが、人の死は、「美しい」。そう、心が感じてしまったのも初めてだ。そんな強く美しい自慢のおばあちゃんである生き様をいろんな人に知ってもらいたい。その思いできっと、このエッセイを書いているのかもしれない。
◎ ◎
おばあちゃんの癌闘病生活が始まったのは、おそらく7年ほど前のこと。手術は、毎度成功し、退院を繰り返すものの、毎年癌は再発。年数を重ねるうちに、おばあちゃんの身体中に癌は転移していった。
27歳の春、「余命1年です」そう医師から宣告されたことを、母から聞いた。母は、涙を流しながら、毎日悲しみに暮れていた。友達にナースや医者がいたのもあって、おばあちゃんは確実に死へ向かっている。いや、死が迎えにきていることを、私は薄々気づいていた。
おばあちゃんの命が1年も持たないこと、数ヶ月であることをきっと予知していた私だが、「あと1年」「あと1年」と前を向こうとする母の隣で、事実を伝えることはできなかった。
そして、私がおばあちゃんの芯の強さを知ったのは、余命宣告をされるもっと前の話。
コロナ禍ではあったが、私はできる限り、病院に通った。「サーちゃん、今日はいいものがあるよ」と少ない年金生活の中、仕事帰りの私に、いつも美味しいデザートを笑顔で用意していてくれた。歩くのもやっとなのに、病室から、院内のコンビニまで毎日歩いて買いに行ってくれていることを考えると、とてつもない愛の大きさを日々、感じていた。
ある日、ハーゲンダッツのアイスを用意して私に渡してくれたが、蓋を開けると、どろどろに溶けていたこともあったな。冷蔵庫と冷凍庫の区別もわからなくなってしまっていることに、心の痛みと切なさが私を襲った。溶けていたことを隠して、「美味しい」と涙ぐみながら頬張ったことも懐かしい。そんな些細な出来事から、おばあちゃんの愛を感じていたよ。
◎ ◎
おばあちゃんの明るくひょうきんな性格は、病院の看護師さんや、先生や病室の方々からもとても愛されていた。「本当に明るくて、楽しいおばあちゃんだね」「この前おばあちゃんがサーちゃんが来るのが楽しみだって言ってたよ」と、様々なエピソードが耳に入って来るたび、私の口元は緩んだ。
入院生活はうんと長引き、退院することもないままおばあちゃんは、病院で四季を過ごしていた。おばあちゃんは目の前の人を喜ばせることが大好きで、いつも冗談ばかりを言って、よく相手を笑わせていた。
私が一番感動した出来事。それは、季節のイベント。
クリスマスの日に病院に行くと、「メリークリスマス!」と、おばあちゃんはサンタの帽子を被り、装飾されたベッドでおばあちゃんサンタが笑顔で迎え入れてくれたな。バレンタインの日は「ハッピーバレンタイン!!」そう言って、買ってきたチョコレートをプレゼントしてくれた。病院の看護師さんや、同じ部屋の患者さんたちにも配っていたな。
とても病人とは思えない元気と明るさ。そして、イベントの度に、ベットいっぱい可愛く装飾して、病院の先生や看護師さんに、事前に用意したお菓子やプレゼントを配って、笑顔を届けていたな。そして、現役時代、美容部員だったおばあちゃんは、容姿にもよく気を配っていたな。
私は当時、おばあちゃんの苦しむ姿は見たことがなかった。笑顔の裏側では、とんでもなく苦しい治療と闘っていたらしい。毎日、辛くて痛いリハビリも「退院しなきゃ」「孫の花嫁姿がみたいから」と力強く頑張っていたと聞いている。
辛い姿を誰にも見せずに、目の前の人を笑顔にしたいという姿は、本当にかっこいい。そして、闘病生活の中、そんなに簡単にできることではないと思う。
◎ ◎
医師から余命宣告を受けて、1ヶ月ほど経った頃、笑顔でい続けていたおばあちゃんも、ついに癌ステージ5と宣告された。こんなにも早く、おばあちゃんが弱っていくとは……正直気持ちがついていかなかった。
おばあちゃんが苦しむ姿と癌の恐ろしさを知ったのは、この頃からだ。病院では、治療に限界があるからと、最期を自宅で迎えるよう、病院の先生に告げられた。自宅療養から3週間ほど経つと、24時間付きっきりで看病していた母親の体力や精神も底をついていた。
その姿を察したのか、おばあちゃんは、「私の命はもう2日も持たないと思う」そう言って、予言の通りにあっという間に、この世を去ってしまった。
おばあちゃんの偉大さを改めて知ったのは、おばあちゃんがこの世を去ってからだ。
地域のカラオケ大会に出たり、地域では知らない人がいないくらい、顔の広かったおばあちゃんだったので、葬儀にはたくさんの人に参列してもらいたかったが、コロナ禍もあり、小さな小さな葬儀場を借りた。
色んな想いを胸に迎えた当日。なんと、駐車場から入り口に向かって長蛇の列ができていた。おばあちゃんの葬儀を知った地域のみんなが、おばあちゃんの最期を見送りにきてくれたのだ。
小さな小さな葬儀場は、おばあちゃんの願いも通じたのかな。葬儀場に入らない人の数で溢れていた。涙だけではなく、思い出話で笑い声も聞こえた。本当に、目には見えないけど、温もりにあふれた愛に溢れる空間に嬉し涙があふれたことを覚えている。おばあちゃんの偉大さを知った夏だった。
◎ ◎
翌日、おばあちゃんの写真整理、遺品整理を手伝った。すると、おばあちゃんの更なる凄さを目の当たりにした。
化粧品会社での売上一位の賞状が何枚も出てきた。そして、当時県民初の女性タクシードライバーとして記事に取り上げられた写真も出てきた。年齢を重ねても、化粧品販売を続けていたり、歌のコンテストに出て感動を与えてくれたり、ゲートボールの試合で夫婦共に優勝したり、ステージ5になっても、毎日お肌の手入れをしていたり、80代とは思えないほどのチャレンジ精神と美意識の高いおばあちゃんだったけれども、おばあちゃんの実績を知って、更に感動した。母親として、祖母として、おじいちゃんの奥さんとして、そして一人の女性として、本当に美しかった。その影では、病気で苦しむ姿を見せなかったように、影で人より何百倍もの努力をしていたんだと思う。
私は、おばあちゃんになりたい。人生に何か結果を残したい。目の前の人を幸せにしたい。そう願いながら、今日も保育士として働き続ける。働き続ける一方で、会ったことのない世界の子供たちのために、海外ボランティアを続ける。
いつかは、私もおばあちゃんのように、女性として素敵な家族を築けたらいいな。
愛するおばあちゃん。おばあちゃんの誇りになれるよう、孫として活躍するから待っててね!