昨年12月27日の早朝に、母が亡くなった。享年55歳。
翌年1月2日に56歳を迎える「はず」だった。
乳ガンが発覚したのは、約1年半前だ。娘である私に母は「胸に固いものができている」と言った。
「検査しないの?多分良性だと思うけど。」
良性であると信じていた。いや、信じたかった。
「検査しないよ。母さん、悪性だとしても治療しないから。」
「何で?」
「だって、癌ができたことにも何かしら意味があるんだから。」
そんな会話を交わした。

母は友達のような、かけがえのない存在

母は太陽のような笑顔が特徴的な人だ。いつもニコニコ明るい。そのせいか、交友関係も広い。いつも友達に囲まれている。
私が仕事に行っている時は、体操サークルに参加したり、趣味ではじめたポーセラーツや、着物のリメイクをしている。
私が仕事休みの日は、毎週のように親子でランチに行く。母も私もカフェ巡りが大好きだ。
高速道路を運転するのが苦手な母に代わり、私が運転してよく遠出もする。彼氏がいない上、友達も少ない私にとって、母は友達のような、そしてかけがえのない存在。

私が高校時代に不登校になって塞ぎ混んでいた時期は「代われるなら代わりたい」と、私の代わりに泣くこともあった。
インフルエンザで寝込んでいる時は、母は一睡もせず私の隣で看病した。
どんな時も娘ファースト。過保護にも程があるくらい愛に溢れる人だ。

ある日、母と会話した。相変わらず検査をしない母。
「何のために私に癌ができたんだろう。きっと意味があるよね。」と母が言った。
私も一緒に考えた。なぜ、こんなに笑顔の似合う母に癌ができたのか。答えは見つからなかった。
「お父さんやおばあちゃんには言わないの?」と聞いた。
母は、「言わないよ。心配かけたくないから。それに、癌ってね、誰かに作られた訳ではないでしょ。自分で、作ったの。自分で作ったからこそ、必ず意味がある。お母さん、癌ができた意味を見つけて感謝する。そして必ず癌を治してみせるから!大丈夫だよ。」
「そうだね。お母さんのしたいようにしたらいいと思う。」
ただ、後悔だけはしないように笑顔で生きて。と心の中でつぶやいた。まだ、一緒にやりたいこと、たくさんあるもんね。

「余命2週間って言われたの。でも大丈夫だからね、なんとかなるよ」

「しこり」ができてから1年が経ったある日、母が言った。
「胸から血が出る」
頭が真っ白になった。
血がでるということは、癌が進行している。
「でも大丈夫。少しだけだから。止血も自分でできるし、鉄分たくさん採るからね。」
それでいいのだろうか。
「病院は?行かないの?」
「うん。行かない。」
母は、一度決めたらやり通す人だ。優しくて繊細だけど、頑固な一面もある。そこが好きだった。止血をしながらも、ピンピン動き回ってる母を見ると、「大丈夫かも」と思える自分がいた。
一緒にランチも行った。一緒に神戸に遊びに行った。

それから数ヶ月が経った。ピンピン動き回っていた母が、少し動いては休むようになった。
「最近、貧血がね」と弱い声で言った。
さすがに、病院に行って止血ケアをしてもらった。後から聞いた話だが、この時既に手遅れの状態だったという。

12月中旬、いつも通り止血ケアに行った母から電話があった。
「お母さんね、余命2週間って言われたの。もしかしたら年内に急死もあるって。すでに治療方法もないって。当たり前だよね。ずっと放っておいたのは母さんだもん。でも大丈夫だからね、お母さんきっと大丈夫。なんとかなるよ。」
そう言ってか弱く笑った。
「大丈夫だよ、お母さん。私もお母さん信じてる。とりあえず仕事は休むようにするから、サポートするね。」
と私も笑って電話を切った。

同時にとめどなく涙が溢れてきた。いつかは来ると分かってたこと。しこりができて、大きくなって、血が出て。治療しないという道を力強く選んだ母を、応援して。分かってた。
でも、きっと治る、お母さんは死なない、大丈夫だと思ってた。

癌は母にとって、母を強く、大きくする存在だったのかもしれない

それから、母は日に日に弱った。
食べれなくなった。立ち上がることが難しくなった。何にも興味がなくなった。笑わなくなった。声が弱くなった。自分で着替えができなくなった。トイレにいけなくなった。
そして、話すことも目を開けることもなくなり、寝たきりになった。

意識が朦朧とし、寝たきりになる直前に私に言った言葉がある。
「お母さん、自分の人生に何の未練もない。お母さんのやりたいように自由にさせてくれた大切な家族。立派に自立した娘、かわいい孫も見せてくれてありがとう。」
続けてこう言った。
「だから、あと5日。5日だけだから、大好きなこのお家にいていい?」

私は涙をこらえながら
「5日と言わず、ずっといていいよ。」と笑った。
その5日後、全く苦しまず静かに、笑顔で旅立った。

母は潔かった。自分の人生に未練がない、と満足していた。
母に癌ができた意味。未だに私は見つけれていないが、母はきっと分かっていたに違いない。癌ができてからの母は、人生を限りなく謳歌しているようだった。終わりを意識したからこそなのかもしれない。
癌は母にとって、母を強く、大きくする存在だったのかもしれない。

母の「癌に感謝できるようになりたい」という言葉はきっと、これからの私の人生を変えるであろう。
良いこと、悪いこと。その全てに意味を見出だし、感謝できる人になりたい、と心から思った。

「治療をしない」という選択はどうだったのだろう。母が亡くなった当時は、親戚や母の友人に責められることも多かった。
「なぜ、知っていたのに連れていかない。」と。
正論だと思う。初期に病院に行っていたら完治することも多い。

でも、「母の意見を尊重すること」も大切だと分かってほしい。誰にも正解は分からない。どの意見も一理ある。
だから、母のことも母にしか分からないのだ。周りがとやかく言う必要はない。母が幸せだったなら、それでいいのではないだろうか。

人生はただ長いだけが全てではない。短くても母のように、太く生きた人もいる。
「治療」が全てではない。自分の人生の終わりを「自分」で決めて、何がいけないのか。

笑顔で、潔くこの世を去った母。最期に耳元でつぶやいた言葉はきっと届いているはずだと信じている。
「宇宙一、大好き。今までも、今も、これからもずっと。」
「お母さんの子どもでよかった。ありがとう。」

悲しみと寂しさを抱えながらも、日常は続く。私の幸せが母の幸せである。分かっているけれども、まだ涙は溢れ出す。涙をこらえて、今日も仕事に行く。
青空を見上げて深呼吸して、母を全身で感じる。そして、いつもこうつぶやく。
「かっこよかったよ。お母さん」