「結婚って、いいものなんだろうなあ。」
幼い頃から、極々自然にそう思いながら育った。それは周囲に、日々を幸せに生きている夫婦が溢れていたからなのだろうな、と今では思う。
昔は、何故だか満点の幸せであることが少し恥ずかしかった。両親がお互いを愛し、私達子供も愛してくれる。過不足のない家庭に生まれて育った私は、10代の頃は、むしろどこか暗い、陰の匂いのするものに憧れたりしたものだ。
しかし今は、自分がそんな家族に生まれ育ったことを、素直に喜べる。
20歳を過ぎてから,「私の両親、今でもすっごい仲良くてさ」と、自然に口に出せるようになった。

17歳の夏、癌になった祖父は余命宣告どおり、ぽっくりと逝ってしまった

今でも鮮烈に覚えている記憶がある。それは、17歳の夏の記憶だ。
その夏、10年一緒に暮らしてきた祖父が亡くなった。「少し胃の調子が悪い。」とぼやいていた祖父。私たちが口うるさく病院に行くよう言って聞かせても、病院嫌いの祖父は頑なに行かなかった。数か月後、お風呂上りに倒れて、とうとう病院に連れて行かれた時には、もう遅かった。
胆管癌だった。既に転移は体中で見つかり、余命3カ月と宣告された。
その日のことを、私はよく覚えている。すすり泣く声が聞こえて、自分の部屋からリビングに降りてくると、祖母と母が向かい合って座っていた。
「おじいちゃん、もう、ダメだって」
乾いた笑い声の後に続いた祖母の言葉は、涙声になり、最後には押し殺したような、くぐもった悲痛な叫びになった。

大好きだったおじいちゃんは、その宣告通り、3カ月であっさりと死んでしまった。
こんなにも、人の命は簡単に消えてしまうのだ。年老いたものは死ぬ。それが人の世の常。そうは思っていても、実際自分の家族に降りかかると、あまりにも無慈悲な現実に愕然とする。
「もう立ち直れないのではないか」そんな暗然たる気持ちがいつまでも心に重く圧し掛かった。

「来世も一緒に」祖父に言葉を掛けながら、慈しむように額を撫でる祖母

棺に納められ、花を手向けられる祖父の顔を見ても、私にはどこか現実味がなかった。
祖父の顔を覗き込むようにかがむ祖母。綺麗に髪をセットし、喪服に身を包んだ祖母は、いっそう美しく見えた。
「おばあちゃんは島一番の美人。」生前祖父はよく私にそう言った。香川県の瀬戸内海に浮かぶ小さな島。小豆島で育った祖母は、確かに美しかった。まるでオードリーヘップバーンのようにポージングした若き日の小さなスナップ写真を、私も幼い頃によく見せられたものだった。

知的で、穏やかだが、ひょうきん者でもある祖父と、勝気で気は強いが、懐が深く、優しい祖母。二人はよく軽口をたたき合っては笑っていて、祖父の言う冗談でいつも一番楽しそうにしているのも祖母だった。
棺が閉められる直前まで、祖母が祖父の額を慈しむように、何度も何度も撫でているのを私は見ていた。その手はぶるぶると震えていて、それでも、何度も、何度も冷たい額をお往復する。
「来世も、一緒にね、お父さん。来世も、一緒に」
祖母は絶えずそう祖父に言い続けていた。問いかけるように、確かめるように。

祖母が亡くなる日の奇妙な体験。祖父母と電車に揺られる私。

そんな祖母も、2年前に亡くなってしまった。
私は、留学していて祖母の死に目に会うことはできなかったのだが、実に奇妙な体験をしたのである。
日本から遠いインドネシアという場所。例え危篤になったとて、帰ることのできなかった私に、両親は祖母の病状の一切を隠していた。私は何一つ知らされていなかった。
しかし、ある晩私は不思議な夢を見た。夢の中で私は、祖母と亡くなった祖父と、3人で並んで急行列車に乗っている。電車が止まると、私は最寄り駅に帰るため、各駅停車に乗り換えようと立ち上がった。祖父と祖母も立ち上がる。しかし、そのタイミングで発車予告のベルが鳴った。私は目の前の電車に乗り換えようと走り出す。すると、祖母が転んだ。すぐさま私が祖母に駆け寄ると、祖父が私の肩を掴んでこう言った。
「おばあちゃんのことは任せて、お前は前の電車に乗りなさい。」
でも、といい募る私の背中を、かぶりを振った祖父が押した。最後に見た祖父の顔は、私の良く知る穏やかな笑顔だった。
その日の晩に、祖母は亡くなったのだ。

今まで一度も夢に出てきてくれなかった祖父が、唯一出てきてくれたのがそれだった。
思えば、祖父は本当に死ぬ間際まで、「おばあちゃんのことを頼む。」と何度も何度も私に言っていた。
ずっとおばあちゃんのことを心配していたのかな、と私はぼんやりと思った。全く、死んでからも孫よりも自分の妻が心配なんて、とんだ惚気っぷりだ。
しかし、「結婚はいいものなんだろうなあ。」私はやはり、そう思うのだ。
私もいずれ、そんな風に思える人に出会えたら良いなと。いや、きっと、出会えるのではないかと。