忘れられない街。
それは、埼玉県にあるS市だ。
大学を卒業して就職をした会社は大手不動産会社だった。
映画好きな私は、就職したら『プラダを着た悪魔』の主人公のような社会人になるんだ、と社会への期待を大いに膨らませていた。
しかし、入社約1ヶ月ほどでその期待は見事に裏切られた。
いつか東京に出て、お洒落な土地で都会的な生活がしたい。
そんな私が配属されたのは、埼玉県にある人口約15万人ほどの田舎町であった。
「今日案内ある人?」
「この前案内した人どうなってる?」
「は?何しに会社来てるんだよ」
配属後、間もなく上司の怒号が飛び交う日々が始まった。
それは、映画の中で見たキラキラとした世界からは程遠い、泥臭い現実であった。
休日はいつものカフェに行き、クリーニング屋に寄るのが日課
私が住んでいたのは、駅から歩いて5分のところにある社宅のマンションだ。
休日になるとモーニングを食べに、近所のカフェに通っていた。
自宅に面した大通りを渡り、細い道へと入っていく。道は少し湾曲をしており、左手にはヨーロッパ風で、お城のように尖った屋根がいくつか付いているアパートがあった。
私は、そんな異国の雰囲気のある小道が気に入っていた。
「ここのアパートは空いてないのかな」
職業柄、"空室状況" が気になってしまう。
カフェに着くと、いつもの(ジャンルで言うと癒し系の)お兄さんが、4人がけの奥のソファ席に案内してくれる。
すっかり馴染み客となった私は、お昼のピーク前には帰ることが周知されているのか、いつからかその席は『私の席』となっていた。
帰りにカフェの向かいにあるクリーニング屋さんに寄り、仕事の日に着ているスーツを預ける。
「今日は2点で良いかしら」
ベテランで物分かりの良いいつものおばちゃんに安心する。
帰りは、少し遠回りをして反対方向から帰る。
コインランドリーの前を通ると洗剤の淡い香りがした。病院の裏の小道を通ると、近所のコンビニにたどり着く。
プライベートな質問をしてくるコンビニのお兄さんとの距離感
夜ご飯はそのコンビニに買いに行くことも多かった。
すっかりレジのお兄さんに認知された私は、
「今、帰りですか?」
「今日はお休みですか?」
「最近暑いですね」
といったように話しかけられるようになった。
30代前半くらいの、黒縁メガネをかけた真面目な青年といった風貌の彼は、そこの店長だった。
レジで挨拶をする程度の関係だったはずが、いつからか、お兄さんの質問の内容がかなり個人的な内容になっていった。
「近くに住んでるんですか?どの辺ですか?」
「どこで働いてるんですか?」
「休みの日は何してるんですか?」
人によってはここから始まる新しい関係もあるのかもしれない。
しかし、当時恋愛に興味がなかった私は、当たり障りのない返答しかすることができなかった。
その後、なんとなく気まずくなり、コンビニを訪れる頻度は減っていった。
白い弧を描くブルーインパルスに釘付けに。やっぱりこの街が好き
その街では毎年、自衛隊による航空ショーというものがあった。
そこでは、県内で唯一のブルーインパルスの飛行パフォーマンスを見ることができる。
その貴重な光景を一目見ようと、毎年約20万人もの人がこの田舎町を訪れる。
私もそのうちの一人だ。
興味本位で、散歩がてら見に行くことにした。
電車で2駅ほど行き、最寄り駅の改札を出たところには、普段では信じられないような行列ができていた。
その列の流れに身を任せてしばらく歩いていくと大きな公園に出る。
「わあ、飛行機だ!」
子供からそのおじいちゃん世代までその場にいた全員が、一斉に同じ方向を見ていた。
その目線の先には、並走してどんどんと上昇していく5台の飛行機があった。
やがてその飛行機は、私たちの遥か上を曲折し、綺麗な白い弧を描いた。
その様子はさながら青いキャンバスに白い筆を走らせているようであった。
飛行機とは思えないその華麗な動きに、その場にいる誰もが釘付けであった。
まるでハッピーエンドで終わる映画を一本見終わった時のように、清らかで爽快な気分になった私は、また明日から頑張れる気がしていた。
心が折れそうになることもあるけれど、やっぱりこの街が好きだと思った。
今でも時々、あの綺麗なキャンバスを思い出す。