父とランチに出かけた。
「予約の取れない、古民家のカフェの予約が取れた。私は何度か行ったことがあるから、休みが取れたくじらが行っておいで」と母に勧められた。私も一度行ったことがあるが、雰囲気が良くていいお店だった。
おしゃれだけど、洋風ではないから、父と行くのもいいだろう。父は、私が父の日にあげたTシャツを着て、運転してくれた。父のよそ行きは、いつもそれなのだ。

◎          ◎

お店に着くと、駐車場には高級車が多く停まっていた。以前来た時は、軽自動車が多く、女性が多いからかなと思った。店内に入ると、今は長期休みの時期で、遠くからくる家族連れが多いようだと気がついた。
食事が来るのを待つ間、食べながら、家ではあまりしないような話をした。あの友達は今こうしているらしいとか、弟はどうしているかしらとか、だけではなく、やっぱりなんか、生きにくいななんて話をした。
父は「当たり前だ」と言う。皆、物を買いすぎている。SNSを大事にしすぎている。そういうのは、我が家とは合わない。合わないなら合わないでいいけれど、なんだか突かれるのは納得できない。質素な暮らしを小さく笑われる。まぁ、気にしなければいいだけの話なんだけど。親世代が気にせずにいられるのは、そんなに周りから突かれないからだと思う。

しかし父も、食べるものについてびっくりされると言っていた。確かに我が家では、普通は食べないものも食べているかもしれない。
小さめの魚なら、頭ごと骨も残さず頂いたり、イカの内臓だって、アルミホイルで包み焼きにして食べる。そういうことについて、父は言われたそうだが、イカの内臓は、酒の肴に最高だ。特に日本酒に合う。ご飯やイカの身とも合うのだ。新鮮なものでなければならないので、ぐちゃっとした内臓が出てくるとがっかりするが、きれいなものが出てくると、ついているなと思う。

なかなかグロテスクなことだけど、出来る限り捨てずに、命を頂くということは、イカに対するせめてもの礼儀だ。イカの内臓を食べることを、母は嫁いでから知ったそうだが、新鮮なイカを捌くと、いつもそうしてくれる。
内臓は、身にも負けないごちそうで、私と父と弟で、取り合いになっていた。「そこまで好きでもないけど」と言いつつ、少しだけ母も食べていた。捨てるなんてとんでもない。

◎          ◎

ある日、皆で食べたお弁当に、鮎の丸焼きが入っていた。高級な弁当だった。鵜飼で有名な地域の鮎を食べられるなんてと、私は大喜びで魚にかぶりつこうとした。
しかし、皆「どうやって食べたらいいかわからない」と、戸惑っている。きれいな川の鮎だ。頭からそのまま丸かじり以外ないだろうに、まぁ頭と尻尾くらいは残しても、あとの身は骨ごと行けるだろうに、「小骨が多くて食べられない」なんて言いだす。
何言ってるんだか。「全部食べられるよ」と言っても、びっくりされるばかりだったから、私は周りの目を気にして頭だけを残し、そこから下の身を尻尾まで全部食べた。私の家族が、どれだけ羨ましがるかわからない立派な鮎を、ほとんど食べずに残す人もいて、ショックだった。
この美味しさを知らないなんて、可哀想だ。しかし多分、私はやばいやつだと思われただろう。

その時の引率の先生は、鮎を丸ごと食べていた。そして授業の時に「お前らは無菌豚だ」と言った。
無菌豚とは、実験のため、無菌状態で育てられた豚のことで、菌への耐性が一切ないために、一歩無菌室を出たら、死んでしまう豚のことだ。確かに、ちょっと文明から離れたら、皆死んでしまいそうだ。私だってきついけど、鮎の丸焼きも食べられないような人たちよりは、よほど生きていけるだろう。
今の時代、除菌抗菌は欠かせない。でも、生活そのものまで除菌してしまうのは、いかがなものか。
納豆や味噌に欠かせない発酵も、菌が行うものだ。そういう菌まで、全部消してしまって、どう生きていくつもりだろう。パンだって、イースト菌や酵母による発酵で膨らんでいる。ピザも食べられなくなる。それは流石に困ると、皆思うんじゃないか。

ちなみに古民家のカフェの、料理については母はそれほど好きではないらしい。麹を使った、玄米中心のマクロビ的な食事は、ここまで凝ってはいないけど、家でも普段食べている。だからそこまで惹かれないそうだ。
まぁ確かに、私たちにとっては、珍しいものではない。雰囲気がとても良いのと、家では作らない組み合わせを見られるから来ただけで、味はそこまで求めていなかった。昔ながらの、ちょっと豪華な食事に見えるけど、これは珍しくなってしまっているのかもしれない。
家族連れで来ていた、隣の机の人たちは、金持ちそうな品の良さがあった。でもなんだか作り物っぽくて、お金は欲しいけど、ああはなりたくないなと思った。無菌状態で生きてきたのだろうと思ったら、納得した。

◎          ◎

無菌室にはお金がかかる。部屋を作るのはもちろん、維持管理にもお金がかかる。私たちの親はそもそも、無菌室はつまらないからか作らなかったけれど、皆は無菌室で生まれ育ってしまったから、出るのが怖いんだ。
私たちは豚じゃないから、そこから出ることも出来る。ただし、少しずつ慣らさないと、やはり病気になる。減菌とか抗菌とか、段階を踏める部屋もあるはずだから、そこへ入って少しずつ慣らしたらいい。

私は多分、抗菌室と外の世界の間にいる。あと一歩が踏み出せなかった。無菌室や滅菌室の人たちに、汚いと言われるのがいやなのだ。本当に汚いのは、どっちだよ?簡単に、「自然はいいよな」とか言っちゃう神経がわからない。
グランピングはいいものだけど、それでは自然は楽しめないだろう。きっと景色はいいんだろうけど、それは自然体験とは別物だ。そういう私も、農業をしたことがあるわけでも、里山で暮らしているわけでも、なんでもない。ただ、自分は自然の本当の豊かさも、大変さも、知っているわけではないということは知っている。それはほんの少しであれ、自分で本当の自然に触れたからだと思う。
無菌室から眺めるのとは違う。きれいに整えられた、体験教室に行ったのではなく、詳しい人に連れられて、野山を歩いた。虫も蛇もいたけれど、ヒルでもなければ、理由なく、あちらから攻撃してくることはないと知った。退治しないわけにはいかない場合もあるけれど、皆が皆、攻撃してくるわけじゃない。同じようなことは、いろんなことに言えるはずだ。

◎          ◎

食事を終え、父とはそのまま海へ向かった。なんだか落ち着いたのは、小さい頃によく連れてこられていたからかもしれない。波が高くて泳げないけど、私はこういうところが好きだな。
古民家も良かったけど、周りを見て、どっと疲れた。周りの人の多くが、ここのお店がいいんじゃなくて、ここに来ている自分が好きなように見えた。写真を撮りまくる人たちばかりだったからだろう。日が悪かったのかもしれない。空気がいいとか、建物が素敵だとか、そういうことを感じて過ごしている人は、どれだけいたんだろう。

周りは必死に除菌をしているけれど、私たちはほどほどに菌とも共存したい。あわよくば菌たちに、美味しいパンや味噌も作ってもらいたい。
気をつけないと、周りの除菌剤で、私の周りの菌も消されてしまうから、菌たちを守りながら生きてる。食中毒には気をつけながら、たまには除菌剤も使って、これからも菌たちと生きる。自分たちに都合のいい菌だけを残して、除菌することはできない。
皆で共存して、上手くやって生きている。そんな世の中を楽しもうと思う。