必要なことは「続ける」ことではない。「始め続ける」ことだ。
そのような一節が、私が子どもの頃から尊敬しているシンガーソングライター、竹原ピストルさんの「オールドルーキー」という曲にある。
初めて聞いたときは、このことばの意味を理解できていなくて(今もご本人の意図する解釈になっているかはわからないが)、あまり意識せずに聞き流していたが、小さなことから大きなことまで、私は今までの人生のなかで何度も背中を押してもらっている。
新卒で入社した会社を一年で退職し、味わった挫折
このことばが最初に私を救ってくれたのは、新卒で入社した会社を、たった一年で退職したときだ。仕事自体を嫌いになったのではなく、業務外の部分で会社の文化・慣習に追われるうちに、心を壊してしまったのが理由だ。
憧れの業界にどうしても入りたくて、何度も説明会や面接に足を運び、やっとの思いで内定を勝ち取った会社をまさか簡単に辞めてしまうなんて……。退職したこと自体に後悔は全くないが、比較的、順風満帆な人生を送ってきただけに、しばらくなんともいえない喪失感に苛まれた。
これからの将来をどう生きていこうか、全く見当がついていないとき、もともと好きで聞いていた竹原ピストルさんのことばが心に刺さった。
一度やめてしまったら終わりではない。立ち止まっても、また始めればいい。今回私が会社を辞めてしまったことよりも、また何か自分らしい目標をもって一歩踏み出すことのほうが大きくて大切なことなのだと。
「続けることが大切」と言われてきたために、自分を責めることになる
人はどうしても、何かを続けることにとらわれがちだと思う。子どもの頃、学校で「勉強はコツコツ続けることが大切だ」とよく言われた記憶があるし、大人になってからも仕事や自分磨きのダイエットなど、同じように言われることが多い。
もちろん最終的に成果を得るために、何かをし続けることは必要不可欠だと思う。しかし、やり続けること、やり抜くことが偉いとたたえるがゆえに、どうも止まることが怖くなったり、続けられない自分を責めてしまってはいないだろうか。
本当に必要なのは、何らかの壁にぶちあたったり、理不尽にも止まらざるをえなかったりして、進むことをやめてしまったときに、また一歩踏み出して進み始める勇気やパワーだ。静止しているところから物体が動き出すときには、既に動いているときよりも大きな力が必要になると昔、理科の授業で習った気もする。
「走り始め続けること」が、自分と向き合うことにもなる
そして「走り始め続けること」は、今までの自分とちゃんと向き合うことでもあると思う。
まさにこのエッセイを書いているときもそうだ。一つのテーマに対して、一気に書き進めることができるときもあれば、立ち止まって考え込んでしまうときもある。大切なのは行き詰っても、一息おいてからまた書き出すことだと思う。
一斉に書いてしまったほうが、短い時間で済むし、自分の心もすっきりするが、何度も止まりながら苦しんで書き終えたとき、「よくがんばったね」と、自分のことを心から褒めてあげたい気持ちになるのだ。
自分だけではなく、自分以外の誰かが立ち止まってしまったとき、その人が同じように救われるかはわからないが、このことばで背中を押してみたいと心から思う。