言葉を理解することができ、話すことができる年齢の子供が大声で泣き叫んでいる場面に遭遇すると、この子供は意図的に涙を道具として使い、大人に見せつけて泣いているのだな、とどこか冷めた憎らしい目で見てしまう。

モラハラ気質でDV傾向の強かった父親の元に育った私は、親の前で泣き叫び駄々をこねるなど幼い時から問題外だった。
父親からの暴力が日常茶飯事であった我が家の"普通"。その基準の中で生活をしていた私が、もしも幼少期に公共の場で泣き叫びでもしたのなら、私は、家族は、長い地獄を見ただろう。
母親は言う。「あなたは泣くこともなかったし、手が掛からない子だった」と。

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そんな私は、子供が嫌いだ。
一般的に"子供は無条件に可愛くて愛すべきもの"という認識があるが故に、子供が嫌いであるという意見を持つこと自体、非人道的であるように受け入れられることが多く、女性であれば尚更、異常者扱いを食らうだろう。
ただ、そんなことを理解しているからこそ、人は口には出さないだけで世の中には"子供嫌い"が意外と多いことをSNSを通して知った。

SNSでは、自分の子供であっても可愛いと思えない母親や、子供嫌いが婚活に不利になることを心配し悩む女性、仕事で子供と関わる際の強いストレスに苦しむ女性、友人の子供と関わりたくない女性、など色々な女性の意見を見ることができた。
また、「子供が嫌いだ」と言うと、変に同情し、悲しいエピソードを作りたがる傾向を持つ人もいるが、全ての人が過去のトラウマや家庭環境に原因がある訳ではなく、食べ物の好みレベルの感覚で、特別な理由を持たずとも、ただ子供が嫌いだ、と感じている人も多いようだった。

しかし、私に関して言えば、その原因は明らかに幼少期に自分が受けられずして求めた愛情への嫉妬以外の何ものでもないだろうと思う。
泣き叫ぶ子供を見ることで幼少期の自分を回想し、自分にはすることが許されなかった我儘を羨んでいるのだと感じる。
自分の感情を、場所や時間に制限されることなく自由に出すことを全て許された子供。
恐れることなく、見捨てられることを知らず、親を絶対的な安心の存在として疑っていない子供。
その全てが羨ましかった。

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SNSには私の知らない愛の形が溢れている。
指を滑らせるだけで、名前も知らない親子の顔が私に笑顔を向けてくる世界。その幸福は画面を通して武器となり、私の傷を抉る。
私は私の知らない愛に、受けたくても受けられなかった愛に、猛烈に心乱され傷を負う。
SNSは比較の宝庫だ。
自分にも想像できないような、あらゆる角度からモヤモヤとしたドス黒い感情を予告も容赦もなく降らせる。

私は泣かなかった。
親を苛立たせたくなかったから。
手を上げられるのが嫌だったから。
面倒な子供だと嫌われたくなかったから。
私は泣きたかった。
泣いても変わらないと知っていた。
安心できる場所はなかった。
我慢は美徳ではないと誰も教えてくれなかった。

子供の頃に泣くことを我慢し続けた私は、大人になった今でも上手く泣くことができない。
本当は、子供だろうと大人だろうと、どこでも自由に泣きたい時は泣くのが一番体に良いのに。
「男の子なんだから泣くな」なんて言葉は、今の時代において完全に死語だ。