母の父親、私からすれば祖父が亡くなった時、私は大学4回生だった。酸いも甘いも嚙み分けた成熟した年でもなかったが、幼くもなかった。
そんな私に母は言った。「真子は冷たい。おじいちゃんのお葬式で泣きもしないなんて」と。
あれはお葬式の翌日、よく晴れた朝の事で、爽やかな風が部屋に入って清々しかった。そんな空間に不釣り合いなくらい恨みがましく言われたあの一言が、未だに私の中に歪な記憶として残っている。
祖父は胃癌だった。だけど薬に頼るのが嫌で、家族やお医者さんによく手を焼かれていた。当時の私は遠巻きにその様子を見ていて、祖父が頑なに薬や治療を嫌がっていたことを亡くなってから知るくらいだった。
だけど母と祖父がよく言い争いをしている声を聞いていたし、まぁ病気になる前から2人の仲は良好とは言えそうになかったから、大変だったんだろうな、と察することは出来た。
当時の私は、家族とも他人とも積極的に接触したくなくてほとんど手も貸さず、確かに薄情な生き方をしていた。だからあの母の一言は、出るべくして出た一言だと思う。
◎ ◎
だけど、私が泣かなかった理由は情が無かったからではない。
祖父が亡くなる前日、私は母とお見舞いに行った。母が売店に席を立って2人になった時、祖父は満面の笑みで今の状況がどんなに良いか話し始めた。
内緒話をするように話し出した祖父は、私が知る限り一番優しい顔をしていた。だけど内容はかなり下世話で、「看護師さんが皆美人で良くしてくれるから気分が良い」という内容で思わず笑ってしまった。
その時ふと、もう祖父は長くないんじゃないだろうかと思った。もう会えないんじゃないかと思った。だから私は祖父の手を握って、「あのさ、おじいちゃん。私、おじいちゃんが大好きだよ」とダイレクトに想いを伝えた気がする。
ちょっと記憶が曖昧だが……。生きている時に伝えなければ私は後悔すると、強く思ったことは覚えている。
そんな突然の告白を聞いても祖父はにっこり笑って、まるで「そんな事知っている」というような顔で「あのなぁ、まーちゃんは何をやっても成功するから、何でもやったらええ、なんっでもやったらええ。全部成功するから」と言った。
どうしてそんな脈絡もないことを言うのか分からなかったけれど、とんでもないネタバレというかとんでもない宝物を貰った気がして、照れくさくて真っ直ぐ祖父を見れなかった。
その次の日、祖父は意識を失ってこの世を全うした。
◎ ◎
お葬式の日、母は泣いていた。自分の父親に「優しく出来なくてごめんね」と泣いていた。なら、生きているうちに優しくしてやればよかったのにと心底思ったけれど、看病の当事者でもない私が言えることではなかった。
喧嘩しながらも祖父を病院に連れて行ったのは母で、薬を飲めと怒ったのも母だった。母が一番リアルな祖父と生きていたのだ。
まだまだ出来たことがあったかもしれないと、母は祖父とのこれからを未だ見ていた。だけど私は祖父に伝えたいことを伝えるという甘い蜜だけ吸わせてもらって、私の中で祖父との関係は終着しきっていた。だから、私は泣かなかった。
今から考えても、やっぱり私はうわべの良いところだけを、母が受け取るべきだった祖父との穏やかな時間を頂いてしまったのだろう。だから葬式の次の日に母に冷たい一言を言われても傷つきはしなかった。ただただ申し訳ない気持ちになった。
当時は何故こんな感情が沸くのか分からなかったけれど、今になってやっとこの記憶が歪に残っていた理由が分かった。
薄情だった私が、ひょんなタイミングで祖父との繋がりを強く感じる良い時間を貰って、片や受け取れなかった母がいて。どちらも無意識に奪い奪われていたのだ。
◎ ◎
あの日から私は、少しずつ家族のために時間を使うことが苦痛ではなくなった。今では家族が頼ってくれたら全力でなんでもやりたいと思うくらいだ。
もちろん家族だからこその理不尽や怒りだってあるけれど、それごと丸っと抱きしめられるくらい強くなった。
この強さが生まれたのは、きっとあの時泣かなかった私が、いや、泣かなくて済んだ私が家族に恩返しするためなんだろう。そう思うと俄然、あの歪な記憶は輝かしい過去に変わって私を後押ししてくれるようだ。