1年前に亡くなった祖母。思い出は楽しいことばかり
祖母(横ババ……横浜のおばあちゃん)が亡くなって、丸1年が過ぎた。未だに祖母が亡くなった感覚がなく、ふと、とてつもなく寂しくなることがある。
私の祖母は戦争を経験したことがあるそう(詳しい話は聞かなかったので、聞いていれば良かったと後悔している)。裕福な家庭で育ち、戦後間もない頃なのに、自転車に乗って女学園に通っていたそう。
いつも祖父母の家に遊びに行くと、祖母はこっそり私たち孫にお小遣いを渡してくれた。継母に育てられた祖母は、昔欲しいものがあっても欲しい!と言えなかったのか、お金には苦労していない家庭にも関わらず、欲しいものがすぐ手に入らなかったそう。
だから、彼女が幼い頃は”特別な日”に与えられるお金で欲しいものを得ていて、私たち孫には、”自分たちの欲しいもの”を”欲しい時に”手に入れて欲しかったようだ。
中学校に上がる前は、よく家族・親戚皆んなで旅行に行った。美しい景色をたくさん見て、美味しいものをお腹いっぱい食べて、素敵なホテルに泊まって、ゆっくり温泉に浸かって。どの想い出も楽しいことばかりで溢れていた。
最後の祖母の外出となった夏の有馬温泉と琵琶湖を巡る旅行では、私の住んでいるアパートや大学のキャンパス(大阪)にも見学に来てくれた。祖父のリクエストでプチ京都を巡り伏見稲荷にも行ったり、限られた体力の中で久しぶりの遠出で、たくさんの彼女の笑顔を見られたのが、とても印象的だった。
体調を崩した祖母は「苦しくない」と強がり続けた
祖母が体調を崩したのは、ちょうど私が1年間の交換留学をしている時だった。母は留学中の私に心配かけまいと、祖母が体調崩している状況を教えてくれていなかった。留学も終わる頃、「横ババ、危ないかも……」と急に連絡が来たのを昨日のことのように覚えている。
アメリカ国内プチ旅行をしてから日本に帰国する予定を急いでキャンセルして、日本に帰る飛行機の便をすぐ手配した。
帰国後すぐに祖母に会いに病院に行き、呼吸さえも苦しそうに見えたが、本人は「全然苦しくないよ」と強がる姿。
それから4年間の間、入退院を何度か繰り返し、最期の1年は自宅で酸素吸入をして過ごした。晩年の「もう明日死んでもいい、苦しい」と弱音を見せるまで、本当によく頑張っていた。看護師の母・助産師の姉でさえ、「あの状態で苦しくないわけないよ……」と言うほどの状況だったが。
祖母が亡くなった当日、私は勤務中に姉からの電話を受けた。「今、横ババの隣に居るよ。息は引き取ったけど、今なら耳はまだ遠く聞こえるかも知れないから、何か伝えたいことはある……」と、電話を繋いでくれた。
その時、私は何も言葉が出てこなかった。涙もちっとも出てこなかった。数秒無言でかたまった後、「仕事終わったら、すぐ会いに行くね」とだけ姉に伝えて終話した。
1週間前に会いに行った時は相変わらずの調子で安心してたからこそ、突然の訃報を受け入れられず、私の時計はその時止まった。身内の不幸が初めてだったのもあり、ショックがとても大きかった。
大切な人を失うって、こんなにも心苦しく、ポカンと心に大きな穴が開いた。
形見にもらったペンダント。祖母は私の一部になった
微笑んだ、綺麗な顔の横ババだった。いつも柔らかく温かい手は、亡くなった数日後、私が会った時には冷たく硬くなっていた。
戒名も彼女に相応しい、華やかなものを付けていただき、祖母は本当に素晴らしい人生の幕を閉じた。それがよく最期の顔の表情にも表れていた。
私はあの泣けなかった日を、一生忘れることはないだろう。そして今も私の心の中で、温かい笑顔で応援してくれている横ババが居るのを感じてる。
向日葵のようなペンダント。私にとって祖母を連想させる、とっておきの形見だ。その形見を今、大切に持っている。
これは、生前に本人から貰ったものではなく、祖母が亡くなってから、祖父が片付けをしている時に見つけたものだ。どんな背景があって祖母がこのペンダントを手に入れたのか、このペンダントはどんな彼女の人生を飾ってきたのか、今になっては分からないが、彼女の人生の一部だったことは紛れもなく確かなことだ。その事実さえあれば、私は十分だ。
次は、私の人生の一部になる。
永遠に愛する横ババと共に。