『いつもハイテンションのお調子者のおしゃべり女』
常にそうとは限らない。が、私(28歳、東京在住)に対する家族友人知人の印象を四捨五入すると、そうなるのではないだろうか。

しかし、そんな私でも「言葉を失った経験」がある。いつもは調子よくペラペラと話しが止まらない私が、なんと言っていいかわからず、黙りつくしたのだ。

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あれは高校2年生の夏だった。日本人高校生40人が3週間渡米し、アメリカ人高校生40人と触れ合う国際交流プログラムの「高校生外交官」に合格したのだ。

私は小学生の頃から、密かに「ジャーナリスト」や「新聞記者」になることを志していた。その志は、私が中学生になって英語の勉強に熱中するようになり、国際科のある高校に進学するにつれて、「国際ジャーナリスト」へと変化していった。

世界の中心アメリカはニューヨーク。その土地に足を踏み入れること、アメリカ人家庭でのホームステイや国連見学。「高校生外交官」として、様々な地方から来る日本人学生やアメリカ人学生と様々なトピックについて意見を戦わせること。すべての経験が「国際ジャーナリスト」になるための第一歩のように、輝いて見えていた。

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そして訪れた初アメリカでの3週間。自分の発した英語が、実際に「言葉」として通じることに感動した入国審査。空港から街へと走るバスの中、全てのもの――建物、車、そして人――何もかもが大きくて、「これがアメリカンサイズというものか」という変な納得と感動があった。

最初の2日間はワシントンD.C.ツアー。様々な所を回ったが、議会図書館の荘厳な雰囲気と、戦没者が多く眠るアーリントン国立墓地の神聖さには心動かされた(感動)。
ホームステイでは、たった3日なのにまるで本当の家族のように接してくれる温かさに、心が感じて動かされた(つまり感動)。

その後ニューヨークに移動し、ツアーで回った後(あのタイムズスクエアのあのハードロックカフェでハンバーガーを食べたのだ……!(もちろん感動)、アメリカ人高校生と合流した。

そこから10日間のプログラムを経て私たち80人は、強烈な絆で結ばれた一つの家族のようになった。帰国する際のフェアウェルパーティーでの最後のスピーチでは、みんな別れを惜しんで涙を流した(当然感動)。

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このように「感動」という言葉以外が出て来ないのは、もちろん私の語彙力が足りないせいもある。しかし、11年を経ってもこのように思い出がすぐに思い浮かぶのは、それだけこの3週間の思い出が強烈であり、「感動」という言葉の持つ包容力に頼らざるを得ないのだ。
その中でも、ニューヨークで、いやアメリカで最も訪れたかった場所で「言葉を失った経験」は、やはり「感動」という言葉を使わず伝えてみたい。元国際ジャーナリスト志望の意地にかけて。

アメリカで最も訪れてみたかった場所、それはグラウンド・ゼロ博物館だった。
2001年9月11日の同時多発テロ。当時小学1年生の私にとっても大きな衝撃であった。世界が大きく動いている気がした。悪い方へと。
同時多発テロ、イラク戦争、アフガン戦争、とニュースは日々人の死を伝える。9歳の頃に出会ったアンネ・フランクの「アンネの日記」と、こうした世情は、私がジャーナリストを目指すようになった一因となった。そのすべての始まり(本当はその前からの流れがあるけれど)の、世界貿易センター跡地のグラウンド・ゼロ博物館。いつか必ず訪れようと決めていた場所だった。

「2001年9月11日のとき、あなたはどんなことをしていたんですか?」
それは博物館へ向かうバスの中で、私がアメリカ人カウンセラー(同行しているボランティアのアメリカ人大学生)に気軽に聞いた。返事を待って彼女の顔を見て、ぎょっとした。その両目に涙が浮かんでいたからだ。
「あの日私は学校に向かっていて……」
なんとか言葉を紡ごうとする、でも涙が次々と溢れて言葉にならない。
「連絡があったの、それで……」
涙は止まらない。「思い出すだけで辛い」経験とはきっとこのことなのだろう。

はっとした。私は自分がいかに無神経で頭でっかちであったか、この涙で思い知ったのだ。
それまで、同時多発テロやテロから発した戦争は、ニュースなどの映像、新聞や本の中の「
物語」だった。アメリカ人の「感情」を知り、今まで自分が当事者の感情を無視して、戦争/平和問題を語ってきたこと。この目の前の涙を無視していたこと。その恥ずかしさで、金縛りのように動けなくなり、喋られなくなった。

そしてその後、実際にグラウンド・ゼロ博物館を訪れた。現場に残された時計や靴、窓の破片といった破壊の残骸に、言葉が出て来なかった。ただただ黙りつくした。

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私がアメリカを訪れたのは2011年夏のこと。奇しくも東日本大震災の年だった。
グラウンド・ゼロで見た破壊と、冬に被災地ボランティアで訪れた宮城・石巻市の破壊。テロと災害を比べることはできないが、共通するのは、どちらも「言葉を失った」という経験である。

ジャーナリストや新聞記者というのは言葉を武器にする職業。それを目指すだけあって、私も言葉には少々自信があった。言葉で何でも伝えられるものだと。
でも違った。言葉にすることすらできない「感情」があり、人間の言葉と表現力には限界があること。その有限性を知ること。そして、それでもなお、「言葉を失う=沈黙」を乗り越えて、伝えたいことがあるからこそ、人はその「感情」にできるだけにじり寄って、それでも言葉を発していくのだ。

「自分の文章力ならなんでも伝えられるはず」という私の思い込みをぶち壊したグラウンド・ゼロ博物館。頭でっかちな私の頭をぶち壊したアメリカ人カウンセラーのあの涙。おしゃべりな私が言葉を失ったあの経験を、一言で表すなら、やはり、心が「感じて動いた」、つまり「感動」しか出て来ないのかもしれない。