私は、八王子に住んでいたことがある。
高校卒業後、上京して初めての一人暮らし。知らない土地での生活が始まることに、当時はとても不安を感じていた。
それは、私だけではなかった。

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「東京は危ない。夜道は気をつけろ」
「変な男に声をかけられたら、すぐに逃げろ」
私を溺愛していた祖父は、私のことをかなり心配しており、何度もそう言っていた。
「みちるはしっかりしているから、大丈夫だよ」と言って、祖父をなだめていた祖母でさえ、不安そうな表情を浮かべていた。

私の地元は東京と比べて、はるかに田舎だった。家の窓から山がよく見えるし、周りには田畑がたくさんある。
道端で会う人はみんな顔見知り。小学生のときは、挨拶しただけで褒められ、よくお菓子をもらって帰っていた。
そんな環境で育ったこともあり、危機感がまったくなかった。
テレビのニュースで、都内で起きた事件を見るたびに、「東京は危険な場所」というイメージがついてしまっていた。

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実際に住み始めて、たびたび怖い思いをしていた。セールスや宗教勧誘目的のしつこい訪問。知らない人に後をつけられたこともあった。
でも、犯罪に巻き込まれることなく、生活することができた。当時住んでいたアパートの大家さん夫婦のおかげだった。困ったときに連絡すると、大家さんたちは「大丈夫?」と心配して、すぐに駆けつけてくれた。

「一人暮らしは不安だろうから、いつでも頼ってね」
引っ越し初日に、大家さんたちがかけてくれたこの言葉は、とても心強かった。
冬にキッチンの水道から水が出なくなったときも、私の部屋の軒下に大きなハチの巣ができたときも。嫌な顔一つせずに対応してくれた。
挨拶すると笑顔で返してくれて、世間話をすることもよくあった。
帰省中に買ったお土産を渡しに行くと、お返しにと珍しいお菓子をいただいたこともあった。

まるで、私を我が子のように可愛がってくれた。
「こんなに親身になってくれる人がいるんだ」
東京は怖いことばかりで、人はみんな冷たいと思っていたけれど、私の考えは変わった。
大学卒業まで見守ってくれた大家さんたちには、感謝の気持ちでいっぱいだった。

就職するタイミングで、私は八王子を離れることになった。挨拶に伺うと、「寂しくなるわね」と大家さんの奥さんが残念そうな表情をした。その日に大家さんと一緒に撮ってもらった写真は、今でも大切に保管している。

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あれから2回引っ越しをした。どちらのアパートの大家さんも、こんなに親身にはしてくれなかった。田舎とは違って、人との距離を感じる。
八王子のころは特別で、これが普通なのかもしれない。

コロナ禍になったこともあり、「またあのころに戻りたいな」とよく思うようになった。
人との繋がりは温かくて、生きていく上で必要不可欠。
私にとって大切なものだと、改めて実感している。