日々満員電車に揺られていると、どうしても他人のテリトリーに足を踏み入れてしまう場面に遭遇する。距離、臭いなど、日常生活では信じられないほどの他人とのかかわりの中で過ごし、ある意味あの車内だけは別次元の、非日常的空間なのではないかとさえ思う。
そしてちょうど目線の高さにある他人の手元にも視線が行ってしまうのは、いささかタブーではあるが、このような経験があるのはなにも私に限ったことではないだろう。

一昔前は縦に折りジワをつけた、数分置きにめくられ変わっていくモノクロの表紙を眺めていた(そしてたまに叱られた)ものだが、最近それらは手のひらサイズに変わり、めまぐるしく動くデジタル画面を手に、老若男女がゲームや動画に興じるのを感じることが多くなった。

◎          ◎

その日も、いつも通りの朝だった。私は朝の満員電車に揺られていた。私の前には栗色の髪を1つに結わえた、若い女性が立っていた。彼女は一心不乱にメッセージでやり取りしているようだった。
ふと電車が大きく揺れ、私は意図せず彼女の背に覆い被さるようになった。そのとき、彼女の画面から、
「死にたい」
「殺してほしい」
という文字が私の目に飛び込んできた。
自分の目を疑った。
私には、この距離にいる、まさに肩が触れるほどの距離にいる人が、それほどまでに深刻な悩みを抱えているという事実に、すぐには実感が湧かなかった。

能天気と言われる私にも人並みにつらいと思うことは多くあるけれど、「死にたい」と思うほどのつらさに苛まされたことはなかったし、私の周りでも、もしかしたら気づいていないだけだったのかもしれないが、そこまで深く悩んでいる人には今までに出会ったことがなかった。だからどこか、「死にたい」などという感覚は自分とは関係のない、遠い話だと思っていた。
しかし、そんなことはなかった。
とても近くにいた、のである。

◎          ◎

人知れず悩んでいる人はきっといるし、それは見た目では分からない。そして見せないようにしている人もいるのだろう。
悩んでいたら1人で抱え込まず相談すればいい。そう言う人もいる。でも、「相談する」に至るのにだってエネルギーがいるし、葛藤があるし、決心もいる。相談することはスタートではなく、ゴールなのだ。
そして本当に孤独なのかもしれないし、1人の方が気が休まる人もいる。時間や場所でも変わりうる。それは他人が判断するべきことではない。
だからといって突き放して良い訳もない。

私は、その光景を前に何も無力だった。何もできないし、彼女の力にもなれない存在だった。
もちろん彼女とは面識もない。ましてや彼女にとってみればテリトリーに踏み込んだ無礼極まりないやつである。話しかけても気持ち悪がられるだけだろう。
この距離にいるのに何もできない。ただ、物理的に近くにいるだけ。
それが歯がゆかった。この物理的な距離が近くも遠くも感じた。

◎          ◎

都会は冷たい、人と人との繋がりや温もりがない。でも人々の遠慮で、忖度でこそ回っている部分も少なからずある。見て見ぬ振りが通常運転で、それを進んで選択してきた社会。そして救おうとする側も、「おせっかい」「偽善者」と言われ、弾かれる社会。
それが良いとは思わないが、でもこの社会で「目立つこと」をして、自分がそんなふうにラベリングされていくのを、気にせず笑っていられるほど強くはない。
でもそんなのはただの言い訳でしかない。

彼女に声を掛ければよかったか。声を掛けて本当に彼女のためになるのか。放っておいてほしい、関わらないでほしいと思うかもしれない。実際はっきり言ってそんな勇気はないし、迷惑だろう――。
結局のところ、「見て見ぬ振り」が、電車の中でたまたま後ろに立っていたやつにとっては、精いっぱいのできることなのかもしれない。彼女と私の双方にとって最善だったと思い込むしかない。

朝の都会の電車で感じた、いろいろのこと。
やはり満員電車の関係性は少し変わっている。