2年間親と連絡を取らなかった。帰省もせず、いつからか連絡さえ疎遠になっていた。「自分を守るため」。そんな大義名分をつけて、親を避けてきた私は親不孝者である。

そんな生活をしてきた私が、今実家にいる。まるで2年間がなかったかのように当たり前に一緒に食事をして、他愛もない話をする。全く今までと変わらない日常を過ごしている。
泣かれるのではないか、怒られるのではないか。反対に私が感極まってしまうのではないか。そんな不安はどこへやら。あまりに自然な生活に、私の涙腺は呆気に取られてしまったのか。涙は出てくることがなかった。

弱っていた私にとって、両親の言葉はつらかった

きっかけは私の自信のなさだった。
新卒で始めた仕事は目標に近い仕事であったが、日々増える業務、かけられるプレッシャー。そしてコロナ禍で始まった在宅ワーク。今まで相談に乗ってくれていた先輩たちは気づいてくれない。相談もできないまま、周りができることができない自分は無能で会社に不必要な人間であると感じるようになっていった。
「繊細さんってやつじゃない?」
上司にそう言われ、すごく腑に落ちた。それでもゆっくりしたらイイ。家族が近くにいる方が良いのでは、と実家での在宅ワークを薦めてくれた上司は、転職をした今でも私の憧れである。

頑張っているね、辛かったね、そんな言葉が欲しかった。震えながら「HSPかも」と打ち明けた私に返ってきた母の言葉は、「大丈夫だよ、そんなことないよ」。頭をガツンと殴られたような気がした。

どんなに辛い状況でも仕事は続く。些細なコミュニケーションミスで、強い言葉を営業さんからかけられた日、「仕事を辞めたい」と、涙でぐちゃぐちゃになった顔で父に言った。
「他の人はどうしているんだ」
なぜそんな言葉を吐けるのか。精一杯の状況の私には到底理解ができなかった。
この辛さは理解してもらうことができない。『親に相談する』という選択肢が、私の前から消えた。

期待外れの私を見てほしくない。家族との連絡を絶った

「仕事を辞めます」「ごめん」
一家のグループLINEに残る最後のメッセージだ。
結局私は抑うつ神経症になり、仕事を続けるのが困難な状況になった。仕事を辞める判断も自分でし、実家に戻らない判断をした。
せっかく入ることができた会社をたった1年と半年で辞めてしまった。3年は頑張れ、なんて言うのに、その半分しか持たなかった。
その事実に家族はなんと言うのだろうか。自慢の娘だったはずなのに、どんどんと理想からかけ離れていく。私自身がその状況に失望していたし、そんな私を見て欲しくなかった。

直接でなくとも、連絡をとることはできる。しかし、文章というものは直接話す言葉以上に難しい。噛み合わない会話にイライラもモヤモヤもしたし、それにまた気持ちが沈む。『自分を大切にしたい』。そう決めた私にとって、このコミュニケーションは不要なものになった。
連絡が来ても返信しないことも増え、こちらからの連絡は一切絶った。いつからか連絡が絶え、家族という縁が途切れたのではないかとさえ考えた。

唐突に決まった帰省。変わらない生活が待っていた

もうこれから一生実家に帰ることはないのではないか。そんな風に考えたこともあったが、一方的な冷戦の終わりは唐突だった。
今後の家族との関わり方を考えている時に決まった転職と引越し。緊急連絡先の登録が必要だから、という理由は私にとって非常に好都合であった。
大阪から東京への上京のタイミングで、一度実家に帰る。2年ぶりの帰省はごく自然に、そして唐突に決まった。

「なぜ」と理論責めをしたがる両親。正直、かなり詰められる、怒られる覚悟をしていた。
しかし、帰ってきた私にかけられたのは「いろいろ言いたいことあるけど、おかえり」という言葉だけ。
朝は「おはよう」と声をかけて、食事を一緒にとる。テレビのニュースに文句をつけて、最近おすすめのお菓子や文房具を紹介してくれる。それまでの帰省とも変わらない生活。
両親は約束でもしていたのだろうか。私が嫌がるような言葉をこの数日間、いっさい投げなかった。

謝らなければならないことがたくさんある。我慢をさせていることもたくさんあると思う。しかし、それを上回る感謝が、自然と「ごめん」よりも「ありがとう」と言わせた。
たぶん私は両親の言葉の足らないメッセージにイライラもするし、今後も自分を一番にしていく。それでも、絶対に私を見捨てない家族をこれからも大切にしたい。
大切な家族に、信頼できる家族に最大限の感謝を。そこに添えるのは涙よりも笑顔がいい。そう思うから、私は涙を流さない。